4.24教育闘争から70年 奪われた学びの機会
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忘れられない「赤いチョゴリの先生」
許玉汝
「4・24」という言葉を思い起こす時、いつも忘れることの出来ない方がいらっしゃる。
私が現役で教鞭をとっていた頃、一五年もの間、机を並べさせていただいた余日花先生のことだ。
祖国解放後すぐにウリハッキョの教壇に立たれた先生は、4・24阪神教育闘争にも参加され、仲間たちと共に果敢に戦った末、投獄された。その頃先生は初めてのお子さんを身ごもっておられたそうだが、春と言えどまだまだ冷えは厳しかったろうに、獄中でどれほどつらい思いをされたことだろう。妊婦であれ誰であれ無差別に投獄した当局の無慈悲さには今も怒りを覚える。
一五年の間に先生からいろんなお話を聞かせていただいたが、身重の身で獄中生活を余儀なくされたその頃が一番つらかったと仰っていた。しかし先生は、退職されるまでの五〇年近い歳月、変わることなく教壇を守り続け、数多くの朝鮮青年たちを育てられた。六五歳で退職された後も機会あるごとに講演会に出向かれ、体験者だけが語ることのできる「4・24」の話を後世に伝え続けてくださった。民族教育を守り発展させるため生涯を捧げられた余先生は他界されたが、その崇高な遺志を継いでいかねばと常々思っている。
もうすぐ「4・24」の日がやって来る。七〇年が過ぎた今も変わることのない民族教育に対する差別と弾圧に屈することなく、子どもたちの未来のために戦い続けようと決意を新たにしている。
先生が退職された日に贈った詩を一部掲載させていただく。
「赤いチョゴリの先生」
五〇年前 解放の喜びで沸き立った運動会の日
生まれて初めて赤いチョゴリを身にまとった貴女は
運動場の真ん中で 疾風の如く走り
人々を驚かせました
アボジの顔も知らない 遺腹女(母親のお腹の中にいる時に父を失った娘) 娘一人を
大切に育ててくださったオモニとハルモニが
生絹をゆがき 真っ赤に染めて
夜を明かし縫って下さったチョゴリなんです
一九四六年四月 教壇に初めて立った日
足は震え 言葉はどもり
何度も折れてしまった真っ白なチョークが
今日もありありと目に浮かぶと仰る 先生
ひとつのコッペパンを 分け合って食べながら
冷たい風が入り込む教室で
ア、ヤ、オ、ヨ 教えるとき
キラキラ輝いていた瞳が力をくれたそうです
神聖な私たちの学び舎を守ろうと
弾圧者たちに立ち向かい闘った日々にも
鉄格子の中で送り迎えた試練の日々にも
先生は赤いチョゴリを脱ぎませんでした
畳 九枚の ふた間だけの部屋で
三代家族が手足も伸ばせず暮らしながらも
息子に娘 四人の子供を 立派に育て
代を担うように導かれた先生
若い先生たちにひけを取るものかと
風をかきわけ自転車をこいでおられた姿
顔のしわも教壇に立てばパァッと延び
珠玉のような筆致は まさに私たちの誇りでした
先生の情熱にあふれた授業と
心を込め作られた数知れない教材は
民族愛の種になり
後世の心の中に花を咲かせることでしょう
五〇年前 先生が初めて身にまとわれた
赤いチョゴリは
民族愛一筋を変わりなく歩んでこられた
もえたぎる 先生の心です
もえたぎる 先生の誓いです (1996・3)
追記・「4・24」を受け継ぐ若者たちに
若者の皆さん! 若いって素晴らしいですよね。でも若いって年齢のことだけではないと思うのです。どんな困難をも乗り越えようとする意気込み、何事にも挑戦してみようと思う心意気、常に失わない学びの心、行動する勇気┅…。
私たちを取り巻く環境は年々悪くなり、冬の時代がとても長いです。でも若い方々が失敗を重ねながらも頑張る姿は私たちに無限の力をくれます。
あなた方は民族の宝であり、民族の種です。種無くして芽が出ることは決してなく、勿論花が咲くことは絶対にありません。あなた方一人ひとりが民族の種であるという自覚を持ち、もっともっと自分を大切にしてほしいです。そして民族の運命も、在日同胞社会も自分が守リ、切り開くという想いで青春時代を過ごしてほしいと思います。48
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