朴思柔と生徒の出会い描いたドキュメント:新しい時代に同胞つながるきっかけになれば
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日本の学校に通う在日の子どもたち
朴日本の学校に通っている在日同胞の子どもたちがすごく気にかかります。自分がそうだったというのもあるのですけれども。「60万回のトライ」の上映会場でそういう背景を持った方と不意に出会うことがあります。「僕は在日だけど日本の学校に行って、ウリマルはできないけれど」と話しかけてくれたりして。特に大阪で出会った方は結構若い方でしたが「ずっと日本の学校に通っていて、でも大阪朝高ラグビー部はずっと応援してきました。やはり同じ同胞の子たちが活躍してくれるのはうれしい」と喜んでくれました。
でも僕より上の世代の、三世でもちょっと上の世代の方は、いろんな思いを抱かれるようですね。映画の中のハッセンたちは、裏表がなくて屈託なくて、関係を見ても透き通っているというか、活力があると思うのですけれど、あの子たちが持っている民族的な、あるいは存在自体から出てくるかのようなピュアさを見て「ああ、いいなあ」「こんな子たちもいるんだ」という気持ちと一緒に、「自分はどうだったかな」と考えるのではないかなと思います。僕もそういうところがあるのですけど。「いやあ、まぶしいなあ、あそこまでできなかったよな」という。
「在日」についてのマイナーなイメージとかネガティブなイメージというのは日本社会にあふれているじゃないですか。僕みたいに閉じた関係の中で、子どもだったら気付かなかったかもしれないイメージを、大きくなるにしたがって、どんどん仕込まれてしまう。たぶんそれは十代の思春期の子どもたちに大きな影響を与えていると思います。日常の関係の中で家族以外、あるいは家族でも「在日」について会話がないというケースはよくあると思うのですが、そういう中でその子たちの「自分は異質だ」という思いはどんどん内側に入って行くしかない。周りからそんなイメージで責められるような状況が続くと屈折しますよ、人間が。それかどこかでわかりやすく折り合いをつけてしまうか。
映画を見に来られた年上の方と話していて、折り合いを付けたけれど、葛藤の跡が残っているような、屈折した思いを感じることがあります。逆に自負心がすごく強い人もいます。大学で必死に朝鮮語を勉強しましたと、ウリハッキョのウリマルではなくて、ネイティブのように「韓国語」で話す人の話を聞いて、そこまでしなきゃダメだったのだな、みなさんそれぞれに相当の葛藤を経たのだなと思います。今、そういう外的なマイナーイメージは、もう街角に直接出てきて、ヘイトスピーチなどでさらにひどいことになっています。インターネットの世界もひどいことになっていますけど、それは日本の学校の子どもたち、悩みなどを共有する環境にない子たちにもっとネガティブな影響を与えているのではないかなと思います。
ウリハッセン(朝鮮学校の児童・生徒)たちはそういう言葉を向けられても、逆に「あんたら何も知らんやろ」、「わたしたちにはこういう歴史があって、アボジ、オモニ、ソンセンニムがいてここにいるのだ」と言える強さがあって、そういうマイナーなイメージに対しても「そんなのフィクションでしょ」って言い返せる。そんな存在に育っていくことがウリハッキョの良さだと思います。だからそう言い返せない、日本社会の在日の子どもたちがすごく気になってくるのでしょうね。
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