朴思柔と生徒の出会い描いたドキュメント:新しい時代に同胞つながるきっかけになれば
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コマプレスの始まり
金淑子朴思柔さんと一緒に映画を撮じめたのはいつごろからですか?
朴朴思柔が大阪朝鮮高級学校ラグビー部を撮ろうと決めたのは二〇〇九年度の花園の準決勝を見たときでした。「60万回のトライ」の冒頭にも出てきますが、大阪朝高が初めて全国大会ベスト4に進出していました。その時はニュースのつもりで撮りに行って大きな感銘を受けたようです。誘われたのはその直後のことです。
金誘われて大阪朝高に行ったのが、朝鮮学校の初訪問だったのですか?
朴そうです。当時は書店で働いていたので、教育分野などの本を通じて朝鮮学校の存在は知っていましたし、拉致問題以降いろいろよくない報道を通じて聞くこともありました。「パッチギ!」などの映画で朝高生を観たこともありました。でもリアルな存在ではなかった。
朴思柔が全国大会で感銘を受けて、一緒にやらないかと僕に声をかけたとき、初めは断ったのです。ドキュメンタリー映画を撮るというのは大変で、十年かかった作品もあるくらいです。それに朝鮮学校になじみも縁もないし、仕事もあったので長期間関われるかどうかもわかりませんでした。しかも映像のプロでもないし。なので、最初は「後方支援」だけならば、と思ってそう答えたのです。でもウトロに行きたいと思ったのと似ているのですが、朝鮮学校に行ってみたいという思いはありました。
それで断わりながらも、大阪朝高での撮影にその日だけ付き合うことにしたのです。それが二〇一〇年二月のラグビー部卒部式(引退式)の日でした。三年生の部員たちを送り出す毎年恒例の儀式なのですが、朝一番に一、二年生のチームと三年生のチームが対戦して、その後、一、二年生が作った花道を三年生が一人ずついじられながら通ります。かわいがってもらった先輩にはそれなりのお返しをして、優しくしてもらった先輩には優しくお礼して送り出すのですが、中には胴上げされる三年生もいたりして。まわりのオモニ、アボジたちも大笑いで。三年生は花道を出ると、コーチやマネージャーから花束を受け取って両親に渡し、一緒に写真を撮ります。それが終ると第二部で三年生が三年間の思いを一人一人語って、第三部ではみんなで焼肉を食べるという。ウリハッキョに初めて足を踏み入れた日がその日だったのです。
こう話しながらあの時の楽しい雰囲気が伝わっているといいのですけど。アボジ、オモニたちも朝早くから来て楽しんでいるし。ウリマルは全然わからないのですけど、そんな和気あいあいとしたことが学校で行われている。学校でこんな光景があるのかということと、しかもそれがみんな在日朝鮮人の人たちなのだということ。報道のイメージから、朝高生は強面で、学校の敷居が高くて無事に帰れるのだろうかというような感じを抱かれているかもしれないのですが、それと全く違う、人間らしい人たちがこんなに楽しく過ごしている場所なのだという印象が第一でした。ウトロと同じかもしれません。その町並みを残したいと思って行ったけれど、結局は人のあったかさというか、オモニたちのもてなしを受けたときのような。
本当はその日だけ撮影に参加して、いわゆるクランクインを見届けるだけのつもりだったのですが、当時の金淳喆校長先生が朝一番に僕と朴思柔を学父母の前に連れて行って「アボジ、オモニ、ヨロブン、これからこの二人が大阪朝高ラグビー部の映画を作ります!」と言って紹介してくださったのです。そうなると逃げられない。これ以上ない後押しに「よろしくお願いします」とあいさつしてしまいました。まあ、気持ち的には「どうしようか」というよりは「そうなるんだな」って感じでした。でもそんなものかもしれませんよね。決断というよりは、そこにいる人たちの気持ちがつながって、それがきっかけになりました。
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