ハッキョが同胞コミュニティの中心であり続けるために
スポンサードリンク
「朝鮮総連:北海道本部と初中高級学校に詐欺容疑で家宅捜索」という速報が流れた日の午後、東京朝鮮中高級学校・民族器楽部の合同演奏会に行ってきた。会場は同校の多目的ホール。部員の家族や吹奏楽部や合唱部の生徒、東京第一など中級部の民族生徒器楽部員たちも鑑賞に訪れ、アットホームな雰囲気の中、金剛山歌劇団の元指揮者・白在明さんの指揮による「ポミワンネ(春は来た)」で始まった。
曲の合間に行われたクラブ紹介によると、現在の部員は二五人、男子は一人だけだ。新入部員の中には北海道や新潟、群馬など地方から来た生徒や中級部の頃は民族舞踊や卓球など他のクラブに属していた生徒も多かった。
高級部二、三年生だけによる民謡メドレー、部員全員による「내 고향에 봄이 왔네 (ふるさとに春が来た)」。続いてOBや愛好家が合流して「양산도(陽山道)」、曲に一挙に厚みが加わった。最後は「손북춤(ソンブクの踊り)」、東京朝鮮吹奏楽団や金剛歌劇団の女性歌手も加わり華やかなフィナーレとなった。
独奏や重奏など楽器演奏はそれぞれに味わいがある。中でも様々な楽器が和音で重なり合って織りなす合奏の面白さは格別だ。演奏を終えて我に返ったときに言葉を尽くせない快感に心が震えることがある。OBや愛好家が集うことでそんな音楽の面白さが生徒たちに伝えられる。演奏の後は、定番の焼き肉パーティーだ。
チマチョゴリを着て歩くことさえ危険な日本社会で、在日朝鮮人であることを自然のこととして受け入れ、チャンダンに民族楽器の音色を乗せ、仲間たちと切磋琢磨しながら自己表現できる場、それがウリハッキョだ。そしていつもそれを支え、温かく包む、それが同胞コミュニティだ。
生徒数が減少する一方で、子どもたちの関心はますます多様化し、教員や父母だけでそれに応えるのはとても不可能だ。そんな中こうしたOBや愛好家の応援や、最近では各地青年商工会の支援が盛んだ。普段は少人数だが、高級学校の学区ごとで集まって授業や運動会、キャンプを開催して、多くの生徒と一緒に過ごすチャンスを作ったり、修学旅行で来た地方の生徒たちに差し入れをしたり、会員の飲食店で食事を提供したという話も聞く。昨年はパティシエなど将来の夢を持つ長野の生徒たちを大阪の青年商工会が受け入れて、企業で職業実習する機会を提供した。青年商工会の配慮やアイデアにはいつも感動させられる。
そしてそんな感動が、もっと多くの卒業生や元教員、元父母や一般同胞をつなげられるかもしれないという期待を抱かせる。同胞の住む場所も、職業も、ライフスタイルも多様化している。それでもやはりウリハッキョは同胞コミュニティの中心だ。多様化した同胞が普段は緩やかに、あるときは強力につながるいろいろなチャンネルを設けられないものかと考える。
酷暑の中の「勝手に金曜行動」、在日の子ども支える日本人たち
どんより曇った空の下、時折秋を感じさせる涼しい風が吹いた八月二八日、文科省前で朝鮮高級学校への無償化制度適用を求める「金曜行動」が、日本人たちが中心となってこの日も行われた。いつも中心は朝鮮大学校の学生たちだが、大学が夏休みの期間は日本人の大人たちが引き継ぐことにした。名打って「勝手に金曜行動」。「来週からは学校が始まるので」と言いながら駆け付けた日本の学校の教員、「一週間のスケジュールにしっかり組み込まれたわ」という市民団体の女性など…。互いに笑顔であいさつを交わす。顔見知りも多い。
さらにこの日は韓国から「モンダンヨンピル」のメンバー七人が、新しい横断幕を準備してはせ参じてくれた。ウリマルができない在日同胞たちともコミュニケーションを取りたいと、昨年十一月からソウル市麻浦区にあるカフェヨンピル1/3で毎週火曜日の夜、日本語を勉強しているメンバーだという。
マイクをもって流ちょうな日本語で「朝鮮学校の子どもたちの学ぶ権利を保障してください」と訴える鄭美英さん。話すうちに涙があふれ、言葉が途切れた。
翻訳家の彼女と朝鮮学校をつないだのは、小説『僕らの旗』。東京朝鮮高級学校出身の朴基碩さんが都立時代の学園生活を描いたもので、彼女が翻訳をした。今は出版社を探しているということだった。翻訳をきっかけに知った朝鮮学校について、多くの人に知ってもらいたいと思いモンダンヨンピルの活動を始めたという。
涙の理由について聞いてみると「こうして学生たちに代わって集まってくれる日本の人々の気持ちがありがたくて…。朝鮮学校であった子どもたちの顔も浮かんで…」。「今日、私たちがここに参加したからと言って大きな力になれるわけではないけど、でも私たちがいることを忘れないでほしい」という言葉に、今度は私の目頭が熱くなった。
「新しいモンダンカフェのマネージャーです」と隣の女性を紹介された。偶然にも今号から連載する「白宇瑛のモンダンヨンピル」の白宇瑛さんだった。「『朝鮮学校のある風景』はカフェにも置いてあります」とのこと。私が四月に持っていったものだろう。
朝鮮学校を中心にこうして出会う人たちがいる。ソウルにもう一つ行ってみたいところができ、会いたい人ができた。
八月は酷暑が続いた。スコールのような夕立もあった。そんな中、毎週集まって「朝鮮学校への無償化制度適用」を訴え続ける日本の方々の姿には、「必ず適用させてみせる」という堅い決意がにじんでいる。制度から排除された朝鮮学校の子どもたちの悔しさや怒り、無念をしっかりと受け止め、彼らが走れないときはバトンを受け取り、バトンを返した後は再び背後からフォローする、そんな日本人の大人たちがいることを朝鮮学校の子どもたちは知っているだろうか? 変わらず見守ってくれる彼らの存在を忘れてはいけないと、改めて思った。
子どもたちに安心と自信を
私たちにできることは?
北海道の総連本部と朝鮮学校を強制捜査というニュースに、血が頭に上るのがわかった。
朝鮮学校は日本に産声を上げた当初から常に弾圧の対象だった。最初の事件は、一九四八年だった。4・24教育闘争当時、小学生だった呉亨鎮さんは次のように語る。
突然警官が大挙学校に押し入ってきて警棒を振り回して、立ち向かう先生や父兄を殴るんです。先生やアボジ、オモニ達が血みどろになって。私たちはびっくりしてパニックになって「先生を殴るな」って、泣きながら飛びかかるんですけど、とてもかなわない。その一方で私たちを追い出した教室のドアが釘付けにされて。血みどろで手錠をかけられた先生や父兄が連れて行かれて「先生返せ!先生返せ!」って地団駄踏みながら泣き叫ぶんだけど、どうしようもなくて。そんな時警官の後ろでジープに乗ったMPがニヤニヤ笑っているんですよね。
それから六七年が経った。生活は想像もつかないほど豊かになり、女性や子ども、障害者ら弱者に対する人権意識も高まった。しかし在日朝鮮人の子どもたちが学ぶ朝鮮学校に警官がズカズカと乗り込むことには、相変わらずためらいがないようだ。
二〇〇七年にも大阪府警が百三十人で滋賀県の朝鮮総連と朝鮮学校を二重三重に囲んで強制捜査した。その後、同校に子どもを送る母親が警察に抗議の電話をしようとすると、子どもが「やめて、オンマが連れて行かれる」と泣き叫んだという。どれほど怖かったことだろう。これは子どもたちへの虐待だ。
弾圧の対象とされ、日本の学校制度から排除されて、高校無償化制度からも排除された朝鮮学校は常に財政難にさいなまれ、子どもたちに十分な環境を提供できないことも一度や二度ではない。けれど、先生たちやオモニ会、アボジ会、青年商工会をはじめとする同胞コミュニティがいつも隣にいて守りながら、足りない部分を補おうと奔走していることを、「勝手に金曜行動」のように防波堤となってくれる日本人がいることを、いつも実感できれば、子どもたちは安心し、愛される存在として自信をもてるはずだ。
私たち在日朝鮮人三、四世が、厳しい歴史の中で被差別者の立場だけに囚われることなく、南北朝鮮と日本の文化を取り入れながら演劇や歌をはじめ独自の文化を創造し、それぞれと対等な立場を築けたのは、一、二世が朝鮮学校を作って、日本人と交流する大切さを教えながら、際限ない愛情を注いでくれたからではないだろうか。
児童・生徒の数が減少し、日本政府の弾圧がさらに強まる中、私たちは一、二世のように子どもたちに安心と在日朝鮮人としての自信を与えられるだろうか? 私には何ができるだろうか? 北海道の強制捜査のニュースは、改めて私たちに問うているような気がした。(金淑子・「記録する会」)33
スポンサードリンク