民族の歴史や文化、知識として継承できても 血と肉に変えて吸収はできない
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朝鮮大学校の美術科に入学して
金朝大の美術科を選んだのはどうしてですか?ずっと朝鮮学校で学んできたのですか?
鄭横浜の朝鮮幼稚園からずっとです。横浜初級学校に上がって、中一まで神奈川中高にいたんですが、中二から父の転勤で、北海道に転校しました。北海道の朝鮮高級学校は、進路は朝鮮大学校という傾向が強くて、クラスの大多数が朝鮮大学校に進学するんです。自分も特にどこに進みたいというところもなかったので、受験の準備もしていなかったですし、役員をやっている朝高生が朝大に集まる役員合宿のようなものにも参加していたので、そういう刺激も含めて朝鮮大学校に進むのが、自分の中では結構自然な流れでした。それでもともと絵を描くのが好きだったので、美術科ということに。
金高校の時は陸上部だったと?
鄭そうです(笑)。神奈川の時は美術部がなかったので美術の先生が、指名した生徒や、自主的にでも描きたい生徒を集めて学生美術展覧会に出品する作品作りを指導してくれました。私もその中に入って、夏休み期間だけは陸上部の活動をしながら学生美術展覧会のための絵を描いていました。北海道に移ってからはほぼ一人で自主的に描いていました。
金じゃあ中高級学校のころから絵を描くことが生活の中に織り込まれていた?
鄭そうですね。
金もっぱら描く方ですか?
鄭図工の時間も好きでした。でも家でやっていたのはもっぱら絵でしたね。
金朝大に入る前の作品で印象に残っているものは?
鄭高三の時に、自分の中では最後の美術展覧会の勝負だと思っていたんです。ちょうど陸上部の合宿の前の連休を利用して描いていたんですが、急いで描いてあまりうまくいかなくて。当時、美術展覧会では、美術部の生徒とそのほかの一般生徒を分けて審査していたんですが、私の作品は一般生徒の作品として優秀賞を受賞したんです。それがすごく悔しかったんです。全然うれしくなかった。それが印象に残っています。最後にうまくいかなかったのに優秀賞取って、自分も美術部の生徒と同じレベルで審査されたかったなあって。それでもし優秀賞取れなくても満足できたのにと思ったりして。
金美術科を選んだのはその時の悔しさもあったから?
鄭美術展覧会のようなものがなかったら、おそらくあんな大きな絵を描かなかっただろうし。自分の中のハードルとして美術展覧会というものがありました。
金朝大に来てどうでしたか?
鄭今まで絵の道具なんかも自己流で使っていたのを初めて専門的に習って、一年目はつらかったです。全然うまく描けなくて。
金道具を使いこなせなかったりして?
鄭はい、そうですね。周りに高級部のころに美術部だったり、予備校に通っていた子たちもいたので、入学したときにすでに木炭を使ってデッサンできたりする子もいて。でも私は初めてで、すごく悔しい思いをした覚えがあります。
金じゃあ、自分の思いを絵に表現できるようになったのは二年生くらいから?
鄭ちょうど武蔵美の人たちと出会った時くらいから、作品制作というような言葉が自分の中に入ってきました。それまで取りあえず描くという感じで。