次男が結婚、党大会後に訪れた「結婚ラッシュ」
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平壌から「今」を伝える・第24信(2016・6・22)
金圭蘭
整理者:筆者の金圭蘭(東京朝鮮第三初級学校一八期・東京朝鮮中高級学校二一期卒業生)は、編者・金日宇の妹である。朝鮮大学校の工学部機械科に在学中の一九七二年春に帰国した。
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息子と長女夫婦と孫の六人で暮らしていたが、昨年末、アパートの建て替えのため長男の嫁の家に引っ越した。今回の手紙には次男の結婚と共和国での結婚事情などが詳しく記されている。
原文は大方日本語で、一部単語は朝鮮語。書き手のニュアンスをそのまま伝えるため、誤字、脱字だけを直した。文中[ ]内と注釈は、整理者が付けくわえた。 (「記録する会」 キム・イルウ)
【2016・6・22】
久しぶりにペンを握りました。音沙汰がないので気がかりです。
オモニは、元気にしていますか? イルウオッパから手紙が来たと、ソン・イルホさんや、コ・ファソンさん、ユ・イルオッパから連絡がありました。[注・共和国で暮らす同級生に送った手紙=本誌37号211~214頁参照]
アパートが建て替えのため撤去され、息子の嫁の家での居候生活です。みんな親切にしてくれるのですが、落ち着きません。
ウナ[キュランの長女・立て替えの為夫の兄の家に居候]は通勤距離が遠くなって、チュウォニとチュヨンイ[ウナの長男と次男]もです。チュウォニは卓球クラブの練習にも行けないでいます。宿題をするのがようやくのようです。
チハ[キュランの次男]が五月二六日に結婚しました。二二日に婚約して、早々に式を挙げました。相手は一九八七年生まれで、光学器具工場で働いています。写真を同封します。
家はソソン区域、兄の家の向かい側のアパートです。一人娘で、オモニ[母親]と祖母と、一緒に暮らすことになりました。指輪とチマチョゴリを仕立ててあげて…たくさんはしてあげられませんでした。心を一つにして仲良く暮らせば…それだけです。
テハ[キュニンの長男]は、大学を卒業してポトンガン区域の「赤い街初級中学校」の体育の教師になりました。学校長が優秀な教員を集めようと東奔西走したようです。今年の金哲柱師範大学卒業生は、歴史学部も、文学部も、体育学部も、専攻科目の実力がはもちろん、コンピュータにも長けていて、引っ張りだこだったようです。テハも学校では人気者のようです。陰で支える嫁の苦労も並大抵ではありません。
三歳になったケヨンイ[テハの長男]は、キョンリム週幼稚園の初期班に行くことになりました。月曜日に預けて土曜日に引き取りに行くのですが、日曜日になると幼稚園に行くと駄々をこねるようです。託児所にも行かず、団体生活をしたことがないのに、最近では歌もうたい、成長が著しいようです。
早くアバートが完成して、落ち着かなければならないのに…。
二〇一六・六・二二 キュラニが。
オモニによろしく。オルケ[兄嫁]にも健康でと。
○写真を撮るカップルが順番待ち
五月はあちこちで結婚式がありました。二月から始まった「七〇日戦闘」が五月初旬に終わり、中旬には党七回大会が行われました。その後に訪れたのが、「結婚ラッシュ」です。チハ[キュランの次男]も、ヒョンジュ[キュランの兄の長男]も、毎日のように友だち、知人の結婚式に呼ばれ、写真を撮ってあげていました。そのチハも五月二二日に約婚式を行い、四日後の二六日に結婚式を挙げました。てんてこ舞いでした。結婚指輪にネックレス、それにチマチョゴリを注文、食堂の予約は長男の嫁が…大変でした。ヒョンジュは、職場の同僚の結婚式に招かれ、チハの方には、顔も見せられませんでした。
二五日と二六日は、朝鮮では特に「良い日」とのこと、天候にも恵まれ…それに六月一日からの「二〇〇日戦闘」が迫っていて、それでこの日に集中したようです。万寿台や音楽堂の噴水前は、写真を撮るカップルが順番待ち。チハは日ごろ、写真を撮りなれているので、そんなところを避け、植物園で写真を撮ったようです。
龍岳山[平壌の金剛山と呼ばれる名勝地]の写真コースも順番待ち、それでも詰めかけています。メアリ射撃場やミリム乗馬クラブも人気スポットです。
最近では、大同江を航行している「ムジゲ」号やモーターボートに乗ったり、飛行機で平壌市内を上空から遊覧したりするカップルもいるようです。
結婚式は、午後三時から光復街の商業中心(光復百貨店)の地下食堂で行いました。両家の親戚、職場の友人三〇人ずつが集まり、楽しく過ごしました。ウナの婿が二人を紹介して祝杯をあげ、両親に花束を渡し、記念写真と記念品(時計と指輪)の交換、食事をしながら歌をうたい、踊り、最後は新郎新婦の二重唱、最後は「セサンエ プロム オプソラ」を合唱しながら、みんなが輪になって踊りました。雰囲気も良く、お客さんも満足したようです。二次会は、長男のテハの家で、チハの友だちと二一階まで上がっていって、翌日は、嫁の家に招かれました。アパートが建て替え中で、私の家から送り出せず、とても寂しい思いでした。
○ここでも晩婚化、結婚届出さずに同居も
話は変わって、結婚届についてです。
役所に「結婚申請書」を取りに行きます。氏名・生年月日・住所・職場など、所定の欄に記入して、人民班長のハンコをもらいます。
テハとヨンスニのとき(二〇一二年)は、なんだかんだ二、三回いったりきたりさせられました。そこに書いた「結婚宣誓」を一緒に読まされたり、覚えなければいけないとか、結婚式の写真を持って来いとか。そればかりか二人で歌までうたわされたようです。今は、結婚届を出さないで同居している人が多いせいか、届けに行ったら「よく来ました」と、やっかいなことを言わず、「分かりました」と、すぐに受けつけてくれるようです。
ここでも結婚をする時期、年齢が遅くなっています。女性は二九か三〇歳ぐらいが普通で、男性は、三〇歳は早いようで、三一か三二歳ぐらいです。今ここでは、一九七九年生まれの女性と、一九八二年生まれの男性で、結婚していない人がいっぱいいます。ウナが一九七九年生まれですが、同級生の中で未婚がいっぱいです。(ウナの同級生は、一九七八年七月から一九七九年六月生まれまでです)
ここでは、一九八二年度に産児制限をしました。「一人が良いです。二人は多すぎます。三人は良心がありません」と言われるほどでした。一九八三年度には、二人目、三人目を生まないように、とのことでした。実は、次男のチハは制限対象でした。お医者さんの眼にひっかからず、生まれた子です。その後も一人っ子が多く、そして「苦難の行軍」のときは、子どもを産むどころではありませんでした。
今、チュヨンイが通っている託児所にウナ、テハ、チハも通いました。その時は、託児所に収容しきれず、個人の家を託児所として利用していました。今は、三階建ての託児所に子どもたちは四〇人ぐらいしかいません。二〇一二年から一四年生まれのチュウォニの部屋はわずか一二人、そのうち、女の子は二人…どこに行っても男の子ばかり、一人しか生まないので、男の子だけしか生まないようです。四月ごろ、万寿台テレビの「最近の国際消息」で、観たのですが、中国でも男の子だけを生んでいると、伝えていました。
みんなが一人っ子なので、過保護なようで…それでも最近は二人目を生む人が多くなっているようです。託児所や幼稚園の運動会に行くと、上の子を連れてくる親が目立つようになりました。
六月一日は、国際児童デーです。この日は、託児所と幼稚園では、どこでも運動会です。職場でもアボジやオモニに時間をくれます。子どもの運動会に「無条件」参加しなければなりません。うちでもケヨンイの方は、テハとヨンスニが、チュヨンニの方は私も行きました。
子どもたちの競技も、親たちの競技も楽しく、面白く過ごしました。この日、全国の子どもたちにおもちゃとチューインガムがプレゼントされました。今年も六月一日の子どもの日は、楽しい一日になりました。39
平壌のキュラニへ東京から兄・イルウより
チハの結婚おめでとう。
オモニに写真を見せました。「結局、テハだけではなく、チハの結婚式にも出られず…」孫の結婚式に出られなかったことをとても悔やんでいるようでした。テハが結婚して今年で四年目? 二人のひ孫とはまだ会えずにいるのですね。
オモニは相変わらずです。三年前に足の膝に人工関節を入れ、その後、脳こうそくで倒れ、一時は車椅子での生活を余儀なくされていましたが、リハビリの効果で、室内での歩行、日常生活にはさほど問題がないほど回復しました。それでも膝を曲げることができず、立ったり座ったりするのに一苦労しています。
この一年半あまり、再び一人生活をしています。起きたい時にベッドから降り、食べたいときに食べ、好きなテレビを観る。そんな気ままな生活が、元気の秘訣のようです。
平壌にも朝鮮家屋を模した立派な養老院ができたそうですね。日本と同じく老齢化が進んでいるようです。平壌で暮らす同級生からの手紙には、幹部だったとか、勲章をいくつもらったとか、特別高いハードルがないのに、入居をためらう高齢者がいるとのことですね。そこでもやはり、お年寄りは自由気ままに暮らすことを望むようです。
楽しみといえば、病院通いのようです。表通りまでゆっくりゆっくり歩いて行ってタクシーに乗り、ぶつくさ言いながら一時間余り待ち、ほんの五分ほど診察を受けます。年初までは、午前中だったので、それから一緒に昼食をとって帰っていたのですが、診察が午後になってからは、スーパーで買い物をして家に。それでも楽しそうです。
元来、外出好きです。かといって一人で出歩くことができず…。「おばあちゃんたちの原宿」巣鴨に行くことが当面の目標のようです。バスと電車を乗り換えなくてはならないので、道のりは遠いようです。ということで、新潟からの「マンギョンボン」号での平壌行きが遮断されている中、北京の空港を横断して、孫やひ孫に会いに行くことは、夢のまた夢のようです。
四月末に引っ越し先での話と入学式の様子を描いた手紙[本誌37号206~210頁参照]を受け取り、五月の連休に手紙を出そうと思いながらも…。返事を出す前に、七月九日消印の手紙が着いてしまいました。本当に久しぶりの手紙になってしまいました。
八月一〇日はオモニの誕生日でした。一四日の日曜日に近所の焼肉店で、三人で一緒に食事をしました。一九二五年生まれですから、今年九一歳です。もう一度ぐらいは、平壌へ。孫やひ孫と一緒に過ごすのが願いのようです。この日も食事の後は、スーパーに行って買い物をして帰りました。
アパートの建設が遅れているようですね。嫁の家での「居候生活」も大変でしょうが、のんびり構えて…そんなことしか言えませんね。
テハとヨンスニによろしく。チハとお嫁さんにも、それから兄嫁にもオモニはそれなりに元気でいると伝えください。
昨日、カレーのルーとインスタントコーヒー、ダシの素など、送りました。だいぶ遅い「お中元」ということで。
二〇一六・八・一七
平壌からの便りを楽しみにしているオッパより39
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