朝鮮学校における教育の情報化 ⑤
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インタビュー:崔誠圭先生 東京朝鮮中高級学校美術部顧問
もくじ
デジタルを駆使して表現する頼もしい生徒たち
今回は、YouTubeに「みする部TV」 を開設して様々な情報を発信している東京朝鮮中高級学校美術部の顧問・崔誠圭先生に話を聞いた。同部は毎年、 斬新な映像作品を在日本朝鮮学生美術展に出品するなど、 デジタル器機を利用した作品制作にも積極的に取り組んでいる。(編集部)
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一七年前にVHSビデオで
金淑子デジタル器機を利用して作品を作り始めたのは、いつごろからですか?
崔誠圭始めはビデオ作品でした。私が埼玉初中にいたときなので、一六、一七年ほど前になります。当初の映像作品はVHSビデオカメラを使っていました。機材も大きかったですね。
金当時、デジタル作品は埼玉の学校だけだったんですか?
崔だったと思います。比較対象もないので参考作品でした。
金デジタルを使うことについて生徒たちの反応はどうでしたか?
崔やったことのないことだったので、興味を持ってやりましたね。それまで映像で作品を作ったり、コンピューターで編集すると言うことが無かったので、面白い作業だったと思います。
金編集はコンピューター?
崔はい。授業やクラブ活動にアニメーションを取り入れ始めた頃でした。埼玉にいた最後の頃は、初級部一年生を除いて二年生から中学生までアニメーションや映像作りをしていました。
金アニメーションを作るというのは?
崔低学年ならキャラクターを作って黒板に付けて、動かしたり、粘土作品を自分で作った背景の前で動かすというやり方でした。例えば鳥を一羽ずつ作って、その鳥が飛ぶ姿を一枚ずつ写真に撮ってアニメーションにするというように。鳥はどんな形や動きをするのかという認識がバラバラなので、ぎこちないものでしたが。でも、生徒にとって自分の作品が動くなんて考えてもいなかったのでとても喜んでいました。当時自身でも映像で作品を作り始めていたので、生徒たちと一緒に未知なものに取り組んでいたという感じでした。
金二〇〇〇年当時、アニメーションを授業で作るというのは画期的ではなかったですか?
崔まだ十分理解されていなかったと思います。ビデオや写真も作品として生徒たちが表現できる媒体だと思い、新しい表現分野を広げる楽しさはありました。
金東京中高に来た後も引き続き?
崔はい、高級部に来た頃にはビデオカメラもコンパクトになって。美術部にはブレイクダンスもしている生徒たちがいたのでダンスで何か表現してみてという提案をすると、自分たちで文化祭イベントを企画したり、ダンスで映像作品を作っていました。九、十年前のことです。
NHKで紹介された部活紹介ムービー
金映像作品を作る生徒たちは毎年いるのですか?
崔美術部のプロモーションビデオを作っているので抜けた年はないと思います。一年だけパフォーマンスをして作品が残っていない年がありますね。
金一度、NHKで紹介されたことがありましたよね。
崔二〇一〇年度に東京朝高美術部全員で作った部活紹介ムービー「line」です。YOU TUBEにあげていたのを、NHKの人が偶然に見て連絡をもらい、デジスタ・ティーンズという番組で紹介されました。あの作品は、当時は画期的で実写もあって、アニメーションで起こすというやり方もざん新でした。部員たちが各パートを完成させ、それぞれの映像を一つのラインでつなぐというのは、生徒たちが決めました。一つの線でみんながつながるというテーマでした。それぞれいろいろなことをしていて、リアルタイムで描きながら撮ったり、パソコンで二頭身キャラを動かしたり、作業は大変だったと思いますが、みなが楽しみながらやっていました。
金その後もいろいろな映像作品を作っていますよね。
崔個人の作品ではパフォーマンスや、文字と言葉だけで自分でアフレコをつけて映像作品として出品することもありました。個人で制作するときは、撮影や編集などすべての過程を全部一人でしなくてはなりません。今高級部三学年の部員は、3Dなどでモデリングしてアニメーション制作まで一人でしています。個別の勉強だけではとてもできないことなのですが、一人でやっているので、大したものだと思っています。ほかの生徒も映像を自分とかけ離れたものとは思っていないはずです。スマートフォンの普及で十分に作れる条件が整ったと思います。五、六年前までは携帯電話で映像を作る環境もなかったし、そのために秋葉原まで行って安価なビデオカメラを買ってきて、でも安価なのですぐに壊れて、ということでお金がかかりました。でも最近は自分が持っている機材でできるので、条件は良くなりました。
「はみ出し」を敏感に拾い上げ、評価
金アナログとデジタルの差は?
崔最近は、コンピューターだけで作業しますという生徒も出てきています。デジタル機器も絵筆と同じただの表現道具です。映像だけでなくて、ゲームや双方向のインタラクティブな作品、何かすれば動くという作品や、ゲームの画面を通じて何かを伝えるという作品を創作することもできます。東京朝高に来て四年目には生徒がゲーム作品を作って学美で金賞も受けました。その時にはもう特別なものではなくなっていたと思います。そういうものを自分の表現媒体として使おうという構想があるかどうか、またそれを提案してあげられるかどうかという問題だと思います。データ量としては画像、映像、VR(バーチャルリアリティー)技術など、どんどん上がっていきますが、実はデータ量としてのアナログ作品はそれを凌駕していると思います。表現の質としてはやっとデジタルが追い付いてきたという感じです。
金生徒たちはデジタルを利用することで刺激を受けると思いますか?
崔刺激にはなると思います。ビデオ編集をすることで、時間を凝縮したり、飛び越えたりして、時間を操ることができます。これは大変刺激的です。映像はデータ量が大きいので、多くのデータを自分がコントロールしながら表現する事で脳のクロック数も上がるだろうし、そこから新しい思考も生まれてくると思います。今の生徒たちは、これまでより多くの情報量を操る力を持っているし、これからの表現を担っていく人としてその力をさらに育んで行かなくてはと思っています。
金美術は生徒の内面的な成長を促す科目だと思うのですが、昔の生徒たちと最近の生徒たちを比べてどんな点に違いを感じますか? 例えば一昔前に比べると、家庭環境も安定して勉強に対する態度も大きく変わったと思います。
崔美術だけで言えるものではありませんが、昔の生徒たちに比べて最近の生徒たちは、幼いころから行動の多様な選択がかなり制限されていると思います。休み時間に遊ぶときも、昔の方が遊びの種類が多様でした。遊びを教えてくれる大人や先輩が身近にいるコミュニティーが少なくなっているし、それを保証してくれる空き地や子どもの秘密な場所が少なくなりました。遊びの多様性が大人によって制限され、多種多様な性格を持ったコミュニティーが無くなってしまった事で、価値観が画一化されてしまっているような気がします。この遊びではこのトンムが一番だけど、あの遊びではこっちのトンムが一番だというように評価が逆転するということが不足しています。休み時間にサッカーだけをしているとサッカーのうまい子だけが一番で、苦手なトンムは評価されない。本来は多様な遊びの中で評価の基準も多様化されなくてはいけないのに、人を多面的に見る事ができなくなっていると感じるこ とがあります。語学はできるけど、数学は苦手、生き物の知識がやけに飛びぬけているとか、学校の勉強はできないのにパズルが天才的に得意とか、勉強でも遊びでも、大人たちが見ていないところでも様々な価値基準が生まれなければいけない。何かを表現しようというときに、多様性の乏しさによる経験不足から思考に分岐が生じないので、教えてもらったことは上手にできるけれど、そこから抜け出して新しい発想をしたり、他人と同じ様になる事に疑問を感じたり、ということが難しくなります。
美術、特に学美はそういう意味で、授業を通じてはみ出た生徒を評価しています。よくぞこの授業からはみ出してくれましたと。大切なことだと思います。今の美術の先生たちは授業や部活を通じて、少しでも見えた大切な「はみ出し」を敏感に拾いあげ、生徒を評価していると思います。学校でもっと多様性を尊重して評価できるような環境を作らなくてはと思います。
金学美での作品評価など、ある時点で美術作品に対する評価が変わったと思います。それはそういう必要性からなのでしょうか?
崔学校教育で子どもたちをどのように育てるかという必要性もそうでしょうが、美術教育とアートというものが、違うものかという問いに対して、そうじゃないという考え方から来ているのだと思います。学美の先生たちの多くは、創作者でもあります。今も自己表現を続けています。子どもたちが学校でする美術と大人たちの創作活動は、さらには教育とアートは、同じではないかと考えるのです。
金両者が追求しているのは何なのでしょうか?
崔表現ではないでしょうか。感じたことをアウトプットすることです。言葉で話すこともそうです。文章が苦手な人もいます。それでも伝えようと、表現しようとすることです。
金多様性が失われつつある背景には、何があると思いますか? 一つは生徒数の減少という問題があると思うのですが。
崔もちろんそれはあると思います。そもそも箱型の教育というのは、本来産業革命の時に工場で働く、言うことを聞く人を作る教育方法なので、そういう教育方法を用いている限り、画一化された人が育つのは当たり前です。そのために全ての空間は四角だし、目的は自然を人口化することなのです。今までそういう教育法が続いてきたので、そうならざるを得ません。でも一方でそれは違うのではないかという人たちもいて、子どもたちを主体とした考えと、大人主体の考えがせめぎあいながら続いてきたのが教育の歴史なのです。
ルソーが「エミール」で子どもを「発見」した時から教育の主体は子どもだという事は延々と言われ続けているのに。
金そういう教育を受けている生徒たちが、自分の感じていることをアウトプットしようとすると、葛藤が生じると思います。どういうやり方でどう表現していいかわからない。そんな葛藤を目の当たりにすることはよくあると思うのですが。
崔表現できないで終わることもあります。後悔はいつも残ります。どうして環境を整えてあげられなかったのだろうかと。表現方法をもっと増やしてあげられなかったのだろうかと。
金どういうヒントを与えるのですか? 本を紹介したりするのですか?
崔話の中で参考になる本を紹介するということはあります。展示会を勧めることもあります。美術部では外に出て美術以外でもいろんなものを観たり、経験したり出来る機会を与えています。でも本人がどう感じるかなので、自分で探さなくてはどうにもなりません。どんなにいいものを持っていても、他の人に見せられるかどうか。
金そういう葛藤もありますね。さらけ出すには、勇気が必要ですから。
崔そうですね。その勇気を与えられず頓挫した企画も多いです。身体表現に秀でた生徒もいるのですが、やってみると言ってみたものの、怖くてできなかった。素晴らしいものをもっていても、表現できないまま終わってしまう。もったいないです。
金生徒よりは知識も多いし、人生経験も豊富だけど、同じように悩むことがよくあるということですね。
崔そうですね。ほとんど同じ水準で悩んでいます。
大切なのはイメージ力
金美術の教員として今現在感じている難しさは?
崔生徒がいい表現をしても、社会の歪んだ価値観をそのままにしておいてはいけないと思っています。社会にどういう影響を与えていくのか。私自信を変えることは簡単ですが、外の世界を変えるのは大変です。小さな表現でも外に出す事によって影響を与える事が出来る。生徒は大人より本来は柔軟なので、その柔軟さを取り戻し、保ってくれればと思います。三年という短い期間に、自分で道を切り開く力を持ってくれればいいですね。卒業したら一緒に何かやっていける仲間になってほしい。そのためには自分も仲間としての価値を保有してなければいけませんが。
金美術が生徒にとってどんな存在であればいいと思いますか?
崔楽しくなければいけないと思います。アートを、何しろ人生の中で楽しんでくれればいい。いやだ、やりたくないと言われると、一番胸が痛い。そういわれたときのショックは大きいです。小さい時はみんなが表現を楽しんでいたはずです。
金社会に出て活躍するというのは美術の専門家としてという意味だけではないと思います。社会で活躍しようとすれば厳しいことも多いと思うのですが、その時に美術が手助けになればということでしょうか?
崔自分の道を創造していく、そこまでいかなくても自分の周りの環境を作り出していく、そのためのイメージ力が大切だと思います。生徒にもイメージ力が大切といつも言っています。「先生、これうまくできないんですけど」と言われると、「イメージ力が弱いからだよ。イメージ力があれば解決できる」と。ジュール・ヴェルヌが、人間がイメージしたことはすべて実現できると言ったそうです。美術を通じてイメージ力を育んでくれればと思います。
視野を広めて、刺激を求めて
金ツールが多様化する一方で、発想の多様化は制限されて。そんな中で学美の役割は大きいですか?
崔毎年、審査を繰り返しながら、美術教育はこういう形になったという、評価基準の一つになると思います。どうしてそういう評価がされたのか、生徒や見る人に解説し、美術教育に対する投げかけも出来る。何よりも教員たちが毎年勉強できるというのが大きいです。毎年同じことを繰り返しているようですが、それは確実に蓄積されています。今までの先輩たちが築いてきた膨大な経験とその作品群があり、テキストもあります。非常に勉強になっています。
金先生にも勉強になっていますか? 刺激を受けますか?
崔はい。行くたびに刺激を受けています。行かないのがもったいないと思っています。膨大な作業を考えると憂鬱になるのですが…。ほかの学校の作品を一つずつみられるだけでも大きな喜びです。
金ほかの先生の批評も参考になりますか?
崔はい、そういう見方もあるのだと。違う視点から見ている先生もいて、自分が発見できなかったことを発見している先生もいます。自分に足りない部分も発見できて。
金生徒に刺激を与えるためには先生が常に刺激を受けないといけないということでしょうか?
崔そうです。当然です。
金デジタル作品の制作は今後も続けていくつもりですか?
崔はい、デジタルだけでなく新しいことにはどんどん挑戦していきたいです。恐れをなしてできないのであれば、躊躇しないでやりなさいと勧めたいと思います。外のアートの世界では確実に展開されているので。油絵がこんなにも普及し、今も引き継がれているのは、当時開発された色や道具がその時の先端であり、保存性において優秀だったからです。昔からさまざまなツールが開発されてきましたが、アートをする人は常にそういうものに敏感でなくてはいけないと思っています。
金昨年度の埼玉のハッキョの卒業生の卒業作品見ましたか?
崔話は聞いたのですが、まだ。作品を作った生徒の一人が今、美術部にいます。彼は今回アニメーションを出品しました。映画も作っていたのですが、今回は出品できませんでした。完成させられなくて。
金機器に慣れていると、違いますか?
崔自立して制作しています。これまでは何かと裏で手伝っていたのですが、最近は見せてももらえないで、生徒が一人で完成させて出品したり。いいことです。でも一応途中でも見せてほしいです(笑)。「出演者と交渉して、撮影に行くので、今日はクラブに出られません」と言われると、「そうなの」というしかなくて。
金美術部は何人?
崔高級部は九人、中級部は今のところ三人。神奈川中高級学校も一二人で、多いところでもそんなものだと思います。たくさん入ってくれればいいのですが。生徒たちは部活を楽しんでいるのだろうかと、いつも反省しています。
金どんどん外に広げながら、生徒たちの精神世界の深いところを掘り込んでいっているようですが。
崔掘り込んでいっているかどうかはわかりませんが、外に出ないと、視野が狭くなるので。
金美術部としては、全国の朝鮮学校美術部生徒との淡路島での合宿(三泊四日)と学美への出品が柱でしょうか?
崔ほかの学校はわからないのですが、東京の場合はいろいろな活動をしています。淡路での合同合宿は他の志を同じくした友だちとつながる非常に大切な機会です。東京の美術部としても春に合宿をしています。最近は川をせき止めたり、橋を作ったり、風景をスケッチしないでその活動を表現作品としました。グループワークもやったりして部の親睦を図るということでしたが、自分たちがいかに自分勝手な人間かということを自覚して帰ってきました(笑)。
金どこかでカヌーに挑戦している映像を見ましたが。
崔あれは私が川口で川の環境をアートで変えようという活動をしていて、それに参加している人が元荒川でカヌーを教えているので、生徒と一緒に行ったんです。カヌーに乗ると視点が変わります。水面に近いところから川を見るので。上から見ているときれいだなとみていた川が、水面近くから見ると汚れていたり、全然違うところからきれいに見えたり、いろんな視点から見る経験をできます。思うように進まないカヌーも面白くて。そういういろいろな変わった経験をする機会もできるだけもうけるようにしています。
六月に埼玉のハッキョで「川の守り神を作ろう」というテーマで特別授業をしたときには、美術部の生徒たちもアシスタントとして参加しました。県に申請してもらってきた薬品でハッキョの前を流れる芝川の水質調査をしたりして、水はどんな状態なのか探りました。この時も美術部の生徒たちはどんどん川に入っていって、「タニシいるぞ」とか叫んでいました。埼玉ハッキョの生徒はびっくりしていました。「芝川に人がはいっている」と。
一〇月二三日に埼玉ハッキョアンニョンフェスタがあるんですが、その時もイベントを計画中です。芝川についてやろうと思っています。埼玉トリエンナーレ(九月二四日~一二月十一日、 開催エリア: 与野本町駅〜大宮駅周辺、武蔵浦和駅〜中浦和駅周辺、岩槻駅周辺)のイベント開催地の一つとしてマークをもらったようなので、トリエンナーレにかかわっている知り合いのアーティストも何人か巻き込めたら面白いなと。
美術部生徒たちの卒業後
金卒業後、美術を専攻する生徒は多いのですか?
崔多いです。自作品のプレゼンテーションを通じて、自己や芸術について考える機会も多いので、哲学を専攻する生徒もいます。いろいろです。朝大美術科に行ったり、美大に行ったり。デザイン専攻したり。武蔵野美術大学に行った生徒も朝鮮大学の美術科の学生たちともいろいろやっているようです。隣なので。
金卒業しても美術を通じてつながっているのですね。
崔そうなんです。そういうつながりをみんなでしっかり築ければと思っているのですが、みんなそれぞれいろいろ発想して、いろんなところに飛んで行ってしまうので(笑)。
今、朝大の研究生や卒業生たちが、日本のアートの先端を行っている同年代の人たちとも一緒になって活動しているようです。朝鮮大学校の美術科研究生や卒業生が日本の若手アーティストと一緒に活動しているというのは、面白い現象です。そういう流れを大切にしてほしいですね。アーティストは異国において大成する場合が多い。自分の存在とは? と自問しながら。在日のアーティストはその意味で世界的に活躍できる潜在能力はあると思います。まわりと違う感覚をはぐくみながら育っていますから。やはり多様性を認め、「はみ出る」事を誇りに思う事が大切なのではないでしょうか。39
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