学生支援会の朴英植代表理事を偲ぶ
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金日宇・公益財団法人在日同胞学生支援会顧問
朝鮮大学校で催された、朴英植理事長の追悼式に参列した。亡くなった日の翌日の二月一三日、朝大から訃報が届いた。私にとっては、朝大の理事長というより、在日同胞学生支援会の代表理事だ。支援会の存在を知ったのは、三年前だったと思う。朴点石専務理事から話を聞いた。朝鮮高校や朝鮮大学に通う生徒・学生の修学支援を行なっている、コマチュック大会や学美などウリハッキョの対外活動を支援している、公益財団法人として六年前にスタートしたということなどだった。朴専務理事が同級生の兄であるということもあったが、久しぶりに母校の東京中高の中級部の卒業式に参加して、進学を巡る厳しい現実を知った直後だったので顧問を引き受けた。
体育館のロビーでは卒業式を終えた何人かの女子生徒が抱き合って泣いていた。「隣の校舎に移るだけなのに…」と、思いながら声をかけると、日本の学校に転校するトンムと別れを惜しんでいるとのことだ。中には、日本の大学を目指す生徒もいたが、大半が経済的事情だということだった。
この話を理事会後の懇談会ですると、朴代表理事は「これからも教育現場の生々しい話を…」と、顧問就任を祝ってくれた。それまでは大会の演壇の上の方、すこし近寄りがたい存在でしかなかったが、この日のその一言で距離は一挙に縮んだ気がした。「何かできたら…できることがあったら」と思った。
その後、朴専務理事を通じて、朴英植理事長から『朝鮮学校のある風景』のバックナンバーの注文を受けた。 草創期の静岡のウリハッキョの「物語」を読みたいとのことだった。
発送先を見ると静岡県だ。てっきり母校について知りたいのかと思っていたが、高校までは日本学校に、朝大卒業後県下の朝青、総連、商工会の役職を歴任し、静岡朝鮮初中級学校の教育会の会長職にも就いている。そのことは「新報」に載った「訃告」を通じて初めて知った。朝鮮大学校の理事長だけではなく、朝鮮商工連と体育連合会の副会長の重責を担いながらも、地元の新年会や女性同盟の集まりなどにも欠かさず参加するなど、地元の同胞社会をとても大切していたようだ。
朝大で顔を合わすと、「トンム、あれ面白かった」、「連載に出てくる〇〇トンムとは…」。『風景』の定期読者にもなってくれた。
理事会を傍聴したり、奨学金の伝達式に参加したり、支援会の活動を誌面に紹介したりするたびに、朴代表理事の存在の大きさ、熱い気持ちを知ることになる。闘病生活を送りながらも、様々な冠奨学金や、トップアスリート育成基金の創立に奔走する理事たちの活動を積極的に後押ししていた姿が忘れられない。
顧問と言いながらも、支援会の広告を雑誌に載せたり、雑誌を発送するとき支援会のリーフレットを挟んだり、そんなことしかできない私に、朴代表理事はいつも励ましの声をかけてくれた。
支援会にかかわって三年余り、顧問らしきこともできず、ぼちぼち引き時と思っていた矢先の突然の訃報だ。追悼式に参加し、茶色の鼈甲の眼鏡の奥の優しいまなざしの遺影を見て、もう少し頑張らなくてはと気を引き締めた。(『朝鮮学校のある風景』編集発行人)48
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