東京朝鮮中高級学校 編入生物語③
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ずっと朝鮮学校に通っている人には、理解できないかも?…
李昌義・1971年高級部入学・24期
リアルパッチギ・青春時代朝鮮高校編7
入学そうそうは、大集団体操(マスゲーム)練習、そしてその次は、大音楽舞踊叙事詩もう休む暇もないほど次々と忙しいことですが、私にとっては、もっけの幸い! またまた、勉強もしないでいいし、ましてやかわいい女の子に囲まれて、今度は舞踊の毎日、も~最高。そしていよいよ、ムヨンばば~の指導の元、きびしい練習開始[写真前列中央ムヨン先生、前列左が私](いや~今はムヨンばば~失礼ムヨンの先生は、私の分会の分会員で、昨年、かみさんの同級生の歌手の林玉順を分会で呼び、公演をしてもらつたあと屋上で焼肉を食べ酒を酌み交わし、林玉順の民謡にあわせ、三〇数年ぶりに、舞踊指導を受けながら二人で踊りまくりました。いやいや ムヨン先生まだまだお若いのなんのって!)
おっと脱線、脱線。練習はというと基本動作から始まり、振り付け、そしてサンモのまわし方等、いやいや大変でした。
サンモは、(周りの人は、小中学生の頃にある程度は経験しているので、すぐに回していましたが)私は、見たことも触ったこともないので、いや~本当に練習しました。それこそ歩きながらでも、首を振り振り練習、練習。ある時、踏み切りで電車の通過を待っているときいつものように首を振り振り、ハナトゥル、ハナトゥル練習していると、後ろでクスクス笑い声、振り向くとそこには、舞踊部の女の子達、思わず赤面したこともありました。
まそんな努力が報われて、すぐに回せる様になりました。そんな中、あれやこれやと役が決まリ、それぞれ猛練習、そして本番、おっと、そうそう、私の役はというと、公演のフィナーレを飾る、マンプンニュン(万豊年・万年豊作)のアッテス、日本語で言うと楽隊衆とでも言うんですかね~。その中でも一番先頭に立ち、セナップをもちアッテスを引き連れ踊るという役でした(今は振り付が違うかもしれません?)
終盤のクライマックスになると舞台の中央に踊り出て、独舞を踊ります。なんせ体操部ですから、飛び出してクル、クル回るなんざ~朝飯前、(この時だけは、全ての人の視線が私に集まりますので緊張しまくりでしたが、そのうちに快感に変わり、もう最高~~~~)
そしてラスト、プンニョンニイワンネ~、プンニョンニイワンネ~~、マンプンニョン~ワンネ~~~~
ジャンジャンジャジャジャン~ジャンジャンジャジャジャン~ジャン~ジャン~カ
ジャジャンジャジャン
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すると出演者一同が、舞台の両袖から登場しグランドフィナーレ、手に手に花をもち全員集合。そしてマンセー、マンセー(万歳、万歳)。いや~、鳥肌が立つほどの感激、本当に涙が止まらず、顔面ぐしゃぐしゃでしたね~。そう、今思うと、この時に私の中の民族の血が完全に覚醒し爆発したと、言っても過言ではないでしょう。(いや~私のアボジもムヨンは達者でしたし、ケンガリ叩かしたら、最高でした。やっぱ遺伝なんですかね~、てことは、うちの息子にも遺伝するのかな~、絶対アッパみたいに、みんなの前で平気で恥ずかしくもなく歌い、踊るようにはにならないと豪語してますが今に見ていてください、あと三〇年もしたら、私以上になっていることでしょう? がはははは~(ちなみに、子供達にする脅し文句はと言うと、言うこと聴かないと、学校行って歌って踊りまくるぞ~~です。アッパ頼むからそれだけはやめてだって!)
朝鮮高校在学中の三年間で、どれほど公演しましたか?~とにかく、当時は何か大会があると、一部は大会、二部は文化公演と数え切れないぐらいやりました。大阪までも公演に行きました。
とと、大阪で思い出しました~。ハン・ドクス議長の前でこけたことを! 何の公演か忘れましたが、新幹線でいそいそと大阪入り、大阪朝高の体育館での公演だったと思います。(う~ん、大阪朝高の体育館? 文化会館でしたっけ~、誰か教えて~とにかく立派な、舞台があったと思います。当時はまだ建物が新しく舞台もきれいだったと記憶しております)
到着そうそうに、リハーサル開始、舞台の床が新しく練習中も気を付けながら踊りましたが、とにかくスベル、スベル。ほかの子たちは、そんなに激しい動作はないですが、私の場合は飛びながらクルクル回るわけですから。いや~参りました。通し稽古の時、やはりすっころび注意を受けました。
本番の時は本当に注意をしなければと心に誓いいざ本番。
演目も進み、いよいよマンプンニョン開始、だんだん出番が近づく中、心の中で、こけるなよ、こけるなよ、と祈るような気持ちでつぶやいていました。そして「チョ~タ~!」の掛け声のもと、舞台の中ほどで踊っていた女の子がいっせいに両側に分かれて、スペースを作りそこに私が飛び出して行くという、私の見せ場になり、勢いよく飛び出していきました。うううう~この先は話したくない~
そ、こけました~~正面貴賓席には、在日本朝鮮人総連合会・ハン・ドクス議長~。すべった瞬間、頭の中は真っ白、しかしここでまたまた芸に助けられました。やはり体操をやってたおかげでしょうかね。無意識のうちに、空中で体を反転し、両手から着地そのまま、何も無かったかのように演技を続行、いや~これが新しい振り付けと勘違いした観衆は拍手喝采! 受けた、受けた~。でも私はほんと必死でしたからもう心臓が破裂しそうでした。そして感動のフィナ~レ。
ああ終わった~~~。とんでもない大阪の一日でした。(この時、確か記録映画用のカメラで撮影してたと思いますので、映像が残っていると思います。)
ふう~~そんなこんなで東京に戻り、しばし休憩。二~三週間後くらいですかね。体育課のチェー・ギルス先生に呼び出され体育教員室に。「何か怒られるのかな~思い当たる節は無いのにな~ ちょっと待てよまだあの件を根に持っているのかな~。」そ、泣く子も黙って失神すると有名なチェー・ギルス先生の唯一の弱点を私は知っていたのです。それはネズミ! 素手でも平気で掴みそうな先生なのにネズミは大の苦手なんですね~
前にも話しましたが、我が体操部の部室は階段の下にあり、下水道が真下を流れている上、そこいらじゅう隙間だらけ。授業をサボって寝ていると、ネズミが足元で運動会。ある日頭に来たので、うちにあったネズミ捕りを学校に持参。(昔の餌に食いついたら、バチーンと頭を潰すやつ)授業が始まる前に部室に仕掛け、休憩時間に部室に行くと、みごと頭の潰れた大きなネズミが掛かっていました。
隣が、体育教員の教員室でしたから、リー・デレ先生にこんなのが掛かったよと報告すべく、シッポ掴んでぶらぶらしながら、教員室の扉を開けると、そこにはチェー・ギルス先生だけ。私は脅かすつもりもなく、先生にこんなのが掛かりましたと差し出すと、「ギャー~」、叫ぶなり、逃げる、逃げる! 「クロンゴ カジオジマラ」(そんなの持ってくるな~)
ま それはそれはすごい形相で逃げまくるもんで、こっちも面白くなり、ネズミを振り回しながら追いかけまわしました。普通はこれで終わるでしょ、ところが、私のいたずら心がむくむくと湧いてくるんですね~。次の時間またネズミ捕りを仕掛けるとまたまたヒット~! どうしたと思います? そ シッポ掴みぶらぶらと教員室に、敬愛する先生の 元に持参。「ギャ~~~」。その次の時間もヒット~。いったいこの部室には何匹いるんだ~さすがに三回目は行きませんでしたよ、私の防衛本能が働き、間違いなく私の頭がグシャ? とされると思いましたのでね。
こんなことを思い出しながら、おそる、おそる教員室の扉を開けると、先生が一通のはがきを手渡してくれました。
ほうほう、なんじゃらほいと見ますと、東京都北区上十条…東京朝鮮中高級学校内 体操部 リー・チャンイトンムアップ、と私の名前が書いてあり、差出人はというと、大阪朝高舞踊部 ○○○と。全然知らない女の子の名前。おれ、大阪で舞踊部の女の子に手なんか出してないよな~と思いながら裏を見ると、そこに書かれていたのは、「オオサカ コンヨンテ…ミックロジゴナ…ク~モス…ホゴ…」
なんせお勉強をほとんどしないおバカな私なもんで、ウリマルがよくわからず体操部の同僚に聞くと、「大阪公演の時、転びながらもすばらしい演技をし、その姿をみて(あなたに惚れました。)うそうそ、感動しました。今後とも舞踊活動がんばってください」だって! 初めで最後のファンレターでした。う~ん青い春、青い春!
リアルパッチギ・青春時代朝鮮高校編8
青春に恋は付きもの。そう 私も恋をしました!
当時、「サインはV」の影響ではありませんが、フライングレシーブがはやり、バレー部もよく体操部にきてマット運動をしてましたし、わたしもよく教えました。
その代わりではないですが、しょっちゅう体操さぼって、バレーの練習をやりに文化会館一階のコートに行き、いっしょにバレーボールをしました。私は背が小さいのでアタックはむりでしたが、レシーブは結構うまかったですよ。右に左にと、フライングレシーブなんか、ちょちょいのちょい。
(体操・舞踊・今度はバレーかよ~~)
なんで今度はバレーなのかというと、 女子バレー部の女の子に惚れちゃったんですね~。そうそうキン・ジョン○○ちゃん。
(名前だしていいのかな~みなさんどう思います? 私が惚れた側で、彼女が私に惚れた訳ではないので、彼女の名誉を傷つけるわけではないと思いますのでいいかな~? おれに惚れられるだけで迷惑じゃ~~て言われたらこまりますのでやっぱ匿名!)
たしか三多摩第一初中級学校出身で、決して背は高くありませんが、ぽちゃとしてかわいくて、班長でもありのちに主将となる頭脳明晰な子でした。
まあ、私も当時はシャイで内気な性格でしたから(今とは大違い~~)顔を見ているだけで、心臓ドキドキ、近くにいるだけで幸せって言う感じでした。
もう本当にちょこちょこ行きましたね~~。
そのうち先輩達にバレ、(そりゃ バレるはな~目がその子ばかり追っているもんで。)
先輩達から問い詰められ、白状~~~、するとあっと言う間に、噂がひろまりました。
(ひどい先輩達でしょ! 無理やりしゃべらしておいて、周りにバラすことはないだろ~)
やがてその子の耳に入り、お互いに意識し始めました。
ある時、 階段でその子とばったり、お互い眼と眼を見つめあいながら、そして、熱い抱擁をかわすのであります。メロドラマか~~そんなわけないだろ!~~実際は声も掛けられず、下を向きポット頬を染めながら、すれ違ったことを思い出します。(いや~純情、純情)
それに 同じ編入班で、バレー部にいた女の子に、その子の住所を聞きいてもらい、(これが今思うと笑っちゃうようなやり方で聞いてもらいました。どうしたかと言うと、バレー部のみんなに年賀状を書きたいから女子みんなの住所聞いてきて~!て頼み、私は、私でカモフラージュのため男子全員の住所を聞きました。
その子一人の住所が知りたいだけの為に! これ本当の話、笑っちゃうでしょ、もっと笑っちゃうのは、その年の正月に聞くだけ聞いといて、誰にも年賀状を出しませんでした~~~。)
そんな苦労をしてゲットした大事な住所、どうしたと思います? そうなんです! 休みの日に、住所と地図片手にその子の自宅付近をうろうろ~、うろうろ~、もうストーカー状態ですね。
ともかく好きで好きでたまりませんでしたからね~。
偶然でもいいから一目逢いたいそんな気持ちでうろうろ~うろうろ~。
二、三回通いましたかね~しかしなんせシャイな私ですんで、気持ちはあっても告白なんかできるはずもありませんし、向こうから来るはずもなく、そんなこんなであえなく一人目は、撃沈 ??? 何一人目? まだおるんかい?
二人目はというと舞踊部の一つ上のお姉さま、主将をされていた方でお名前は忘れましたがとっても清楚な人で、恋というか? 憧れというか?、見つめられただけでやたらと照れてしまいました。
三人目は、(まだ続くんかい?)やはり舞踊部の後輩の子で、東京第四初中級学校出身のお眼めがくりっとしたかわいい子、すぐに舞踊部を止めてしまいあえなく撃沈。四人目は(おいおいいったい何人いるんだよ~)
白状すると、前出の歌手の方、三角関係を恐れて、自然消滅。それに体操部の後輩、朝練のとき、たった二人きりになり、むねがどきどき! も~だれでもいいから付き合ってくれ~~~そんなこんなで目移りしているうちに、みんな他の人に取られ、結局は誰ともお付き合いできなかった、かわいそうな私でした。自業自得じゃ~~ 二兎追う物は一兎も得ず!
苦くてすっぱい青い春でした。じゃあ~また!
リアルパッチギ・青春時代朝鮮高校編 9
恋のつぎは?
そ・朝高生といえば、遊び・私も生意気にパチンコ、マージャン、雀球、玉突き(昔は、ポケットではなく、ほとんど四つ玉でした)。体操・舞踊・バレーボール・その次は、遊び、いやいや休む暇なし、勉強する暇なし!
(3年間総合評価、落第の意味がわかりますでしょ~?)
写真は、マイ・チングたち、よくあそびました。
なかでもよく一緒に遊んだのが、上段一番右端、リー・チャンミン (上段左端が、私)
なんせ私と、一時違いの名前で、妙に馬が合うというか、しょっちゅう、マージャン、パチンコ、雀球と、つるんでましたね~
(彼は、合唱部で、のちに、金剛山歌劇団に入団し活躍後、今は、総連支部の委員長をされていると、思います。チャンミンごめん! 昔のことバラっしゃった! 笑って許して!)
朝、担任の先生の点呼が、終わると、学校の塀を乗り越えて、近くのパチンコ屋か、雀荘。学校が終わる頃、また塀を乗り越えきて、なにくわぬ顔で、今度は部活。先生にどこ行っていたと言われても、イソッスンミダ(居ました~)で終わり! なんせ人数が多いいもんで、一人二人抜けてもわからないんですね~。それにごっそりとは、抜けないんですよ、「今日はおれが抜けるから、お前居ろ」とか、いろいろ示し合わせて抜けるんですね。こういうとこだけは、皆さん優秀。
(今思うと、先生達も多少のことは、おめこぼし、していたんでしょう?)
部活が終わると、そのまんま、またまた近くの、パチンコ屋とか、雀荘に行くんですね、そして稼いだお金で、どこに行くかというと、そ~です、ディスコ。七〇年代と言えば、ディスコの全盛期。当時の六本木、赤坂のディスコは朝高の先輩達が占めていましたし。新宿、池袋と、とにかくディスコだらけ。体操・舞踊と体を動かすのが大好きで、おバカな私でしたから、それは夢中になって通いました。
さすがに、ガクランでは入れないので、ミドリヤ (もう潰れましたけど、今で言うイトーヨーカドー?)で、分割払いで、紫色の玉虫の生地(この玉虫の生地、角度により色が変化して、なかなか渋いんですよ)のスーツでシングルボタン、マンシングのハイネック、当時はやりのハマトラファッションに身を包み、さっそうと、ディスコに出陣。
私は、もっぱら池袋、(なんせ地元でしたから)、ロサ会館にあった、アダムスアップル、東口のロイヤルハバナ、そして747! サタディーナイトフィーバーの、もっと前の時代です。スリーディグリーズ、スタイリスティックス 、コモドアーズ、それに最後の方はアースウインド&ファイアー。
チャチャにジルバ、朝鮮マンボ!、それにステップ。チークタイムの(青い影)、(メリージェーン)にドキドキしながら踊り、はじめて女性の肌を感じ、肉体を意識し始めた頃でした。
それにまた、第二次ディスコブームの先駆けとなったダンスで「ダブルバンプ」、「カンフーバンプ」、お尻とお尻をぶつけあう単純ながらも意外に疲れる踊りがありました。
その中でも極めつけは、吼えろ! ドラゴン (Kung-fu fighting)(カール・ダグラスの曲)「燃えよドラゴン」が、はやり、ヌンチャクシーンのジャケットで余りにも有名な曲です。
♪ホーホホホォ~~♪のイントロではじまり、エブリバディワズ、カンフーファイテイング~~~♪。
もうこの曲が、かかると、われわれの独壇場でした。
いきなりホールの真中で、バク転、バク中、カンフーの真似をしながら踊りまくっていましたからね~。
(今で言う、ブレイクダンスとでも言いましょうか?)
いまでこそジャニーズが、がんがんやってますけど、当時は、初代ジャニーズの、飯野いさみか、フォリーブスの北公次(ふる~~若い人は知らないでしょう~)ぐらいしかやってませんでしたから、注目の的でしたよ。
それはそれはモテまくり、でも前回書いたように、やはりシャイでしたし、結構硬派でしたから、チャンスがあってもいけないんですね~。(今思うともったいね~~)
(我が青春に、勉強の二文字なし! がははは~~~)
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