私達日本人は 朝鮮民族を誤解する パラドックスの中にいる
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~神奈川朝鮮学校訪問を終えて~
河中 葉
*ブログ「狂国見聞史」(2・17)からの転載。
機会があって、横浜にある朝鮮学校にインタビューしに行ってきました。エマニュエル ・パストリッチさんという、韓国で活躍される方が本を出版するに当たって私に依頼してきたインタビューなのですが、私も訪問した感想文を書きました。
私が小学生高学年の頃になると、家庭にはまだ珍しかったがインターネットが少しずつ普及してきていた。当時はまだ電話回線で高額な使用料を払い、時間を限定しながらインターネットを使っていた記憶がある。
ドイツで知り合った人の家に行った時に、ドイツのスーパーで買ってきた硬い豆腐を料理して二人で食べた。ドイツ人の知り合いは、「豆腐はインターネットみたいだ。最初はほとんど見かけなかったし食べる機会もなかったのに、今はどこにでもあってみんな食べる。」とインターネットと豆腐の社会への浸透するスピードについて話していた。
スマートフォンの普及もそれと似たようなものかもしれないが、情報化社会というものは恐ろしいもので、便利さの中毒に陥っているうちにある偏ったイデオロギーに染まってしまう事もある。
日本における朝鮮民族への差別や偏見が、その最たる例ではないだろうか。
私も何の悪気もなく、ただ興味本位で性犯罪についてインターネットで検索して調べていた時に、その誰が書いたかもよくわからない記事に「犯人は在日」「韓国や北朝鮮は性犯罪大国」という文字が踊っているのを読んで、鵜呑みにして信じてしまっていた時期がある。
その軽い考えと無知が、どれほど日本に住む在日の人達を苦しめ、朝鮮半島の人々も貶める事になっているかを全く知らなかったと思う。
私はヨーロッパなどに憧れを抱くようになり、実際にフランスに滞在もしたが、朝鮮半島については隣の国なのによく知らない事が沢山あった。
それでも機会あって韓国に知り合いも出来て、時々韓国には行くようにもなり、いかに若い頃の自分の考えが偏っていて無知だったかを思い知った。北朝鮮には行った事がないが、韓国に関して言えば韓国人は日本人に対して非常にオープンマインドで接してくれるし、日本が朝鮮半島を統治した歴史に関してもとても冷静だから、テレビのニュースで報道されている韓国と日本の問題の数々が、戦争ビジネスを目論む日本政府によって煽られているという事が身に染みてよくわかるようになった。
「河中さんも、朝鮮学校に行ってみてください」と韓国に住むパストリッチ氏に勧められた時、はいと短く答えたものの朝鮮学校に見知らぬ私が出向いて行って、果たして学校の人達に受け入れられるのだろうかという気持ちだった。訪問する目的がインタビューとなった時に、少し今まで抱いてきた隔たりのようなものが無くなった気になったというか、私は日本人の抱える差別的な考えが、少し取り払われるきっかけができるだろうかと期待した。
私が訪問した神奈川朝鮮中高級学校は、国や自治体に差別され、神奈川県内の外国人学校の中で唯一、授業料無償化制度が適用されず、県は同校を含む五校に通う児童・生徒への学費補助を二〇一六年以降停止している。それについて元文部科学事務次官の前川喜平氏が横浜市内で講演し、「国や自治体が率先して差別を行い、国民の差別感情を助長している。官製ヘイトだ」と批判されている。
私が神奈川朝鮮中高級学校を訪問した際、金燦旭校長先生は私に広い校内を見せ、Wifiの配線なども卒業生や父兄の協力を借りて、自らの手でやっていると教えてくれた。高くて広い天井にあれだけの長い配線をするには労力と時間がかかるだろうが、それでも彼等は自分達の手でやるのだ。
神奈川朝鮮中高級学校では、特に語学教育に力を入れていて、生徒達は皆、朝鮮語、日本語、英語の三言語をしっかり学ぶ。学校を卒業する際には、各言語の検定試験の資格保有を目標として、ハードな勉強を毎日こなす。日本の学校が取り入れるよりも前に、情報教育を実践し、情報リテラシーなどを学んで自ら情報発信のできる人材育成をしている事も特徴の一つだと金燦旭校長先生は語った。それは課題のうちの一部であるが、やはり学校の教育方針としてのベースにあるのは、互いに助け合い、何かが得意な人はそれらが苦手な人の手助けをするという助け合い精神を基調とした、朝鮮民族としての心と誇りをしっかり教えるという事だ。
私が生徒達との雑談の中で「将来どういう風な仕事をしたいですか?」と聞いたところ、ある生徒は「この朝鮮学校を続けていくために何か役に立てるようになりたい」と、はにかみながら私に答えてくれた。その話を金燦旭校長先生にしたところ、「生徒が学校の心配をするなんて、本来しなくて良い事なんですけれどね。」と言った。神奈川朝鮮中高級学校は、多くの保護者や卒業生の助けによって運営されてもいるから、生徒の目から見てそうする事は当然という意識なのだろうが、金燦旭校長先生は複雑な表情を浮かべた。けれども私が思うに、生徒達の意見は金燦旭校長先生らの教育の成果でもあろう。そこに朝鮮民族の助け合いの精神が受け継がれていく様子を見た気がする。
校内で誰と会っても笑顔ではきはきと挨拶され、電車の中でぶつかってもすみませんすら言わないような殺伐とした雰囲気は微塵も感じられない。
授業を見学させて貰うと、生徒達は地震災害に対する備えをしっかりしましょうだとか、挨拶は大事なので特に目上の人に対しては丁寧に挨拶をしましょうだとか、自分でテーマを考えて発表し、音楽の授業ではアカペラで合唱して笑い合っていたり、和気藹々とした雰囲気を感じた。
少し日本の学校と違うように感じた点は、発表前に多少生徒がおどけていたりしても、先生も叱ったりせずに笑って見守っている事だろうか。そこに大らかさを感じる。
私が在日の人達に対して差別をしてくる日本人に関して質問した時も、感情的な発言をせずにあくまでも冷静に彼等の思想を分析して、決して貶したりする事のない態度は、金燦旭校長先生だけでなく生徒達にも見られたので、少し驚いた。
例えば多くの日本人にとって、従軍慰安婦の問題であるとか、徴用工の問題であるとか、戦争責任について問われるのは自分達が一方的に悪く言われているように感じるのか、もう解決済みのことに関して何度も蒸し返してくる朝鮮民族はタチが悪い、というように感情的な意見が多い。
実際に韓国で慰安婦の少女像を守る活動をしている人に話を聴けば、賠償を何回も求めている理由は日本の政治家が次から次へと慰安婦の強制連行はなかっただの、必要悪だったなどと失言を繰り返しているからだと説明してくれるのだが、そういう話をしても「韓国側の態度が悪いからそういう発言をせざるを得ないんだ」と開き直る日本人もいる。
インタビューの中で、生徒の一人が「私達は思想というか、自分達の考えをしっかり持つ事を大切にするように教えられているから、日本の人達もしっかりと自分の考えを持って話し合えば、偏った情報に惑わされずに理解し合えるようになると思う」というような事を言っていたが、正に私達日本人は自分達の考えを失ってしまっている事に気付かされたような気がする。
金燦旭校長先生は、繰り返し、無知が色々な問題を起こすと言ったが、それは過去の私に聴かせてあげたい言葉である。
無知―知っている気になっていて、実は何も知らないという事が、どれほど多くの差別を蔓延らせているのだろうか。
昔の私は単純にインターネットに載っていた情報を鵜呑みにしたがために偏った考えを持っていたと思うが、「知る」という事の大切さすら「知らなかった」のであろう。
十代の頃にも病気のために精神的に不安定で、私の家族が差し伸べている手も見えずに、家族に対して悪態をつき続けた経験もあるが、正に日本人の多くが朝鮮民族の差し伸べている手が見えないまま悪態をつき続けている構図と重なってしまう。
人として当たり前の思いやりや公正な目線というものは、失敗を繰り返して学んでいくものでもあるのかもしれないが、頑なになった人の心というものは失敗を失敗とも認められない事がある。
しかし、金燦旭校長先生や神奈川朝鮮中高級学校の生徒達は、差別を受ける側でありながらも「日本人と普通に接して理解し合える事」「学校を開かれた場所にして、多くの日本人が足を運んでくれる事」を目標とし、心掛けてくれていた。
自分の不満や不安を誰かに向けることで安心しようとしている人達は、どれだけ悪態をつかれようと自分達に暖かい眼差しを向けて受け入れようとしてくれている人の心がないと、安定して立っている事はできない。
皮肉にも、それを一番実践してくれているのが、自分達が差別する相手の在日の人達であるという事を、認めざるを得ないのではないだろうか。彼等は差別を許しはしなくても、極めて冷静に公正に接してくれるのだから。
学校を去る時に、「またいつでもどうぞ」とお辞儀をしてくれた金燦旭校長先生と、外で遊んでいたのに私を見かけてまた挨拶をしてきた生徒達を見て、日本人が失いかけている心を、彼等が「朝鮮民族の誇り」として教育に取り入れて脈々と継承しているのだと思った。
暖かい彼等と接したら、朝鮮学校への補助金の打ち切りや無償化制度から外すといった政府や自治体の対応の全てが、仕組まれたビジネスのような差別の実態だと私達は気付き直せるきっかけを手にできるのではないだろうか。
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