朝鮮の歴史100問100答(新羅の金冠・百済の金銅仏)
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金昌成
編集部より・平壌の外国文出版社が昨年4月に刊行した「朝鮮豆知識②-歴史」(日文・83頁)からの転載。原文のまま、写真は整理者による。
もくじ
23・高句麗とともに存在した封建国家にはどんな国がありはましたか?
高句麗とともに存在した朝鮮民族の封建国家には、百済、新羅、伽耶などの諸国家がありました。
24・百済はどんな国でしたか?
百済は高句麗の始祖王東明国の子温祚が建てた国です。東明王が長子儒留を太子に封じると、温祚は王子沸流とともに一〇余名の臣下を引き連れて南下し、これに多くの民が従いました。
温祚は河南の地慰礼城に都邑を定め、国名を百済と称しました。
前三世紀中葉封建小国として発足した百済は、周辺の多くの小国を併合し、前一世紀末、独自の封建国家となりました。
このようにして出現した百済はその後、唐・新羅連合軍の侵入によって六六〇年に滅びました。
25・新羅はどんな国ですか?
朝鮮最初の封建国家の一つである新羅は、前期新羅と後期新羅からなっています。
前期新羅は、一世紀初中葉に新羅封建国家が成立した時から七世紀中葉までです。後期新羅は、六七六年から九三五年まで存在しました。
首都は王京(今日の慶尚北道慶州)に位置していました。
新羅の支配層は領土の拡張をはかって、唐の侵略勢力を引き入れるという反民族的な売国行為を働きました。
新羅・唐連合によって六六〇年には百済が、六六八年には高句麗が滅び、新羅は大同江以南の全地域を占めることになりました。
こうして、この頃にほとんど成熟していた高句麗による三国の統一は挫折しました。
26・卒呂はどんな人物ですか?
卒呂は六世紀末~七世紀初めの画家です。
彼は身分は低いが抜きんでた画家でした。
卒居は皇龍寺の壁に老松を描きましたが、太い幹の樹皮が亀甲状の割れ目をなしている様子や、くねくねと曲がった枝に茂る松葉の姿を優れた画法と生新な色彩をもってリアルに描き出しています。
絵がいかに実物そのままに見えていたかは、多くの鳥が飛んできては、壁にぶち当たって落ちたと言われているほどでした。
卒居の死後、絵の色があせたので皇龍寺の僧が色を塗り直しましたが、その後は鳥が来なくなったと言います。
27・伽耶琴はどんな楽器ですか?
伽耶琴は、六世紀初葉に伽耶国(金官伽耶)の楽士であった音楽家于勒が新たに製作した固有の朝鮮民族楽器であり、伽耶の国で生まれた楽器だとして伽耶琴と呼ばれるようになりました。
伽耶琴は弾力がありながらも響きがやわらかく優雅で演奏の動作が律動的で美しく、朝鮮民族の情緒と好みに適しています。
構造が簡単で、琴柱を動かすことで音調を容易に変えることなどができ、習得が容易で演奏法も多様なことから、人々に広く愛好され、普及した大衆的な楽器です。
28・高句麗を継いだのはどんな国ですか?
高句麗が外部勢力と結んだ新羅により、六六八年にその存在を終えた後、高句麗の遺民は唐侵略軍を駆逐して、六六八年に封建国家渤海を立ち上げました。建国初期の首都は東牟山(中国敦化付近)です。
渤海の版図は、南は西部の大同江流域から東部の金野・龍興江付近(一時襄陽郡)に至る朝鮮半島中部界線を境界として新羅と接し、東はロシアの沿海辺境に至る東海の全地域を占め、西側と北側は中国遼河下流地方から黒竜江一帯及び松花江沿岸の全地方を占めました。
およそ二三〇年間存在し、「海東の聖国」として威容を誇った渤海の初代王は大祚栄です。
29・大祚栄はどんな人物ですか?
大祚栄は高句麗時代の武将で、唐の強制移住政策で遼西の営州(現在の朝陽)に移されていた高句麗遺民を戦いに立ち上がらせるべく営州に潜入しました。
ここで彼は、六九六年夏、高句麗遺民を結集して暴動を起こし、追撃して来る唐軍を天門嶺(遼寧省)の戦いで殲滅しました。
大祚栄は、六九八年に渤海を打ち立て、高句麗と同じ国家統治機構を組織して常備軍を備え、柔軟な対外政策を実施しつつ国力を不断に強化していきました。
30・上京石灯籠はどんな遺跡ですか?
渤海の首都上京竜泉府の第二寺址(中国黒竜江省寧安県)にあるこの石灯籠は高さは6・3メートルで、青黒い熔岩を精巧に彫って作られています。
上京石灯籠の火袋は、ここ宮城禁苑の池の中の島にあった八角亭を移し置いたかのような印象を与えています。
下から上にかけて石灯籠各部位の大きさを次第に狭めたきめの細かい造り、優雅な趣の地輪と開放的な上部の構造の巧みな対象など、優れた建築術と彫刻術の有機的な結びつきを見せる上京石灯籠は、東方諸国の中で最も古くて大きい石灯籠に属しています。
(以下次号)47
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