東京朝高を警官隊500人が襲撃した「3.7事件」体験者・鄭洙敦さん
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四月末、埼玉ハッキョを支援する有志たちが開いた連続学習会に参加した。鄭栄桓さん(明治学院大学教養教育センター教員)の講演は、内容豊富で、当時の情勢の背景を多くの資料でしっかりと明確に示してくれる。回数を追うごとに参加者が増え、三回目のこの日、「冷戦下の朝鮮学校」には七〇人以上が参加した。講演後の質疑応答で、東京朝鮮中高学校を約五百人(『東京朝鮮中高草創期十年史』50頁)の3.7「3.7事件」の体験者・鄭洙敦さんを知り、インタビューを申し込んだ。四日後に自宅にお邪魔して話を聞いた。
もくじ
若い世代に、私たちの体験を伝えたい
語り部・鄭洙敦さん
総連埼玉県本部顧問
日本人よりも日本人らしい、忠実な皇国臣民に
一九三六年七月五日に愛知で生まれて、物心つく前に千葉の母方の家に移った。そこで育ち、国民学校(小学校)に通った。
ハルモニとハラボジは、慶尚北道の田舎で土地を奪われて、生きる糧を求めて日本に渡って来たようだ。誰かの紹介で千葉に来て、廃品回収、主に鉄屑を集めて売って生計を立てていた。今は野田市に合併されたが、二川という江戸川と利根川にはさまれた小さな村で、朝鮮人はいなかった。藁ぶき屋根の農家の古家を借りて住んでいた。雨もりがひどかった。
在校生三〇〇人ほどの国民学校に朝鮮人は私一人だけだった。一冊の本には収まらないほど、いじめられた。死んでしまおうと思って家を出たことも、何度かあった。そんな中で、日本人とうまくやっていくために日本人よりももっと日本人らしくなっていじめられないようにしようと勉強も一生懸命して、当時の皇国臣民教育に従って誰よりも忠実な日本帝国の兵士になろうと心に誓った。
同級生たちに一世のハルモニや親せきと一緒にいるところを見られるのが嫌だった。なぜかまたハルモニが白いチマチョゴリしか着ない。理由は言わないけれど、私をじっと睨みつけながら「どんなことがあっても日本の服は着ない」と言ったことがあった。仕事の時も、家の中でも白いチマチョゴリなので、あちこちよごれて黄色くなってしまっていた。それでもいつもチマチョゴリだった。古物商のハラボジをハルモニが手伝っていたので、顔も日に焼けていた。そんなハルモニを「朝鮮人、朝鮮人」と日本の子どもたちがバカにするので、「ぼくはこの家の子どもじゃない。この家の人たちがどこかで拾ってきた子どもなんだ」と、愛知から引っ越してきて間もない幼いころは言い訳していた。
でもハルモニなしには生きられなかった。無意識にハルモニから得たものが多かった。朝鮮人の目に見えない根性というか、それに食文化。日本人にいくら「ニンニク臭い」と言われても、家ではハルモニが作ったご飯を食べた。ハルモニが作る料理はテンジャンで漬けたものとか、慶尚道の山村の料理で、肉や魚はほとんど食べたことがなかったが、ハラボジが鶏をつぶした日は「今日は肉だ」とうれしかった。その日は必ずハルモニがつぶした鶏の良い部分を包んで出かけて行った。巡査の家だった。そうしなければ私たちは生きていけなかった。それが生きるための手段だった。私たちが食べるのはいつも、モミジと首より上、内臓、それが子どもの頃の肉だった。それがご馳走だった。
国民学校の頃の記憶はわずかだけど、良くない記憶ばかりだ。戦争が終盤に差し掛かると、傷痍軍人が各国民学校に来て、担任の教員と一緒にクラスを担当した。皇国臣民の精神を鍛錬するのだといって、子どもたちに竹やりを持たせて運動場に建てた人形を突き刺す訓練をしたりしていた。
ある雪の降る寒い日、三年生の終わりころだったと思う。その傷痍軍人が私に、「手をポケットに入れて授業を聞いていただろ」と、「兵隊さん が寒い中で命を懸けて闘っている時に、勉強できるだけでも幸せなのに、ポケットに手を入れて授業を受けるとは何事か!」ということで、三〇人くらいいるクラス全員に外で雪玉を一つずつ作らせて、それで一人ひとり私の顔をごしごしこすりつけるようにさせた。それが終わると水の入ったバケツを両手に持って一時間廊下に立たされた。
もう一つ忘れられないのが、四年生の八月に戦争が終わったあとのことだ。朝、学校まで四キロほどの道を歩いていると、校長の息子だったか、巡査の息子だったかを中心にした数人のグループに「敗戦の仕返しをする」と言って、茂った桑畑に連れていかれて、首から下を畑に埋められた。ツルのようなもので手足を縛られて身動きもできずに、大きな声で叫んでも通る人もいなかった。半日くらいしてようやく気付いてくれる人がいて、助けてもらった。畑の水で、服に覆われていない部分は白くふやけていた。
天皇陛下に忠誠を尽くそうとこ んなに努力しているのに、戦争が終わってもこんな扱いを受けるのかと、これ以上この村にはいられないと思った。それで国民学校を卒業して叔父を頼りに東京に行った。茨城も埼玉も、地方はどこもみな保守的だった。
上野・親善マーケットへ
「朝鮮人も悪くないかも」
一九四八年に中学校に行かなくてはということになって、大学に通う叔父が住んでいた東京・上野に行った。
叔父は、上野の宝ホテルがあったところの後ろに「国際親善マーケット」というコリアタウンがあるが、そこで一間を借りていた。
そこは別天地だった。あれほど日本人に嫌みで言われてきた「ニンニク臭い」「ごま油臭い」「腐った(キムチなど発酵した)臭い」が充満していた。幼いころからハルモニによって育まれた「朝鮮の臭い」があふれかえっていた。住んでいる人たちは朝鮮語を使って、皆親しそうで、子どもたちは元気に駆け回っていて。こここそ、自分が生きていくところだと思った。朝鮮人だからこんなに苦労すると思ってきたのに、朝鮮人も悪くないかもしれないと、理由はわからないけれど、そう実感して、ほっとした。
そこに住んでいた同じ年の李淳東(焼き肉「千山閣」の創業者の弟)が、「十条に朝鮮学校があるから一緒に行って見よう」と誘ってくれて、訪ねて行った。行くと、大きいけれど、校舎は校舎らしくないし、こんなところで勉強ができるのかと思ったけれど、同世代の朝鮮人がたくさん集まってきていて、日本の学校の雰囲気とは全く違った。ここなら自分の居場所もあるかもしれないと思った。東京に来るときは、将来就職に有利な資格を取ろうと思っていたが、それをやめて、朝鮮学校に入った。同級生に今の許宗萬議長や金栄春がいた。韓東煕先生や、第四(朝鮮初中級学校)の李公海も同級生だ。親善マーケットに驚いて、そのまま朝鮮学校の環境に魅せられて、内容も何も知らずに入学した。
ウリマルは、ハルモニが慶尚道の方言で生活していたから、何とか聞き取ることはできたが、「親善マーケット」に来ると、朝鮮語なのに聞き取れなかった。済州島の言葉だった。学校では皆日本語を使っていた。ところが入学後は、生徒たちは皆胸に「国語常用」という札をかけて、日本語を一言でも使うと手持ちのカードを一枚ずつ取り上げられて、カードが無くなると、反省文を書かされた。そんな過程を通じて少しずつ慣れて行った。
ウリハッキョに入った当初は、「ひどい学校に来てしまった」という思いがあった。同級生の年齢はバラバラで父親のような同級生もいて、半数は寮生なのだが、彼らは年上が多かった。先生と同じ年の同級生もいた。
校舎は造兵廠(兵器製造工場)だった土地なので、運動場にはいくつも小山があって、毎日少しずつならすと、たまに薬きょうが出てきたりした。校舎も木造の長屋のような建物だった。東京に出てきて友達といろいろなところを見て回ると、日本の学校は立派で、それに比べるとあまりに粗末だった。
「親善マーケット」に来て朝鮮人になったような気になっていたが、本当に朝鮮人の気持ちが芽生えたのは、一年生の頃、台東区稲荷町にあった朝聯の事務所が閉鎖された時だ。早く朝鮮語になれようと、事務所の講習会に通っていた。ある日行くと、警官隊が事務所をとり囲んで誰も入れなかった。そうして学ぶ場を奪われた。そこが唯一ウリマルを勉強する場だったのに。
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なだれ込んだ警官隊
警棒で殴られたシーン今も
一九五一年二月二八日に、武装警官がハッキョを襲撃して、教科書や文書を押収した(「2.28事件」)。翌週の三月七日、再び警官隊が大挙ハッキョに乱入して教員や生徒に暴行を加えた(「3.7事件))。
私が警官と直接対峙したのは、「3.7事件」の時だった。あの時は、朝から警官がハッキョを取り囲んでいて、その中で保護者の抗議大会が行われた。保護者たちは本当に憤っていて、抗議大会は怒りで沸いていた。その勢いで保護者と高級部生徒と中級部三年生が抗議活動に出て、中級部一年生は教室で待機し、二年生が校門を守っていた。校門は今の ような鉄製じゃなくて、時代劇に出てくるような木製の門だった。女性生徒が前にいて、後ろの方にいた。まさか警官が押し入って来ようなどとは思ってもいなかった。
突然警官隊が襲撃して来ると、皆崩れて、警官が校内になだれ込んできた。気が付くと頭から血が流れていた。そんな中でもヘルメットを被った警官に殴られた瞬間だけははっきり覚えていた。抗議する生徒もいたけれど、ほとんどの生徒は、恐ろしくて蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。中学二年生だったから。あんな経験は初めてだった。新聞には約五〇〇人の警官と書いてあったが、私にはただ黒い群れだった。黒い大きな群れが押し寄せて来た。
「2.28事件」と「3.7事件」の後、組織活動をするようになった。校内に自治会というのがあった。警察にやられたことを日本の生徒に知らせるために、個人ではなく自治会の中にそういう部署を作って活動しようということになって、平和委員会というのを友だち数人と作って、日本の高校の生徒会を回った。なぜ平和委員会なのかというと、一九五〇年六月、私が中級部二年の時に朝鮮戦争が勃発して、アメリカが朝鮮半島で原子爆弾を使うかもしれないという情報が流れた。そんな中、スウェーデンのストックホルムで「平和擁護世界大会」が開かれて核使用の禁止を訴えるストックホルム・アピールが採択された。世界中でこれを支持する署名が集められて、日本でも署名運動が繰り広げられた。そういう流れの中で、平和運動の一環としてウリハッキョの問題も日本の人たちに訴えようということだった。そういうことを考えて行動に移したのは、この時が初めてだった。学校の端に小さな教室を一つもらって、いつも十人くらい集まっていた。女子生徒が多かった。この活動を通じて日本の高校の学生団体を知るようになった。今思うと、中学生がよくああいうことをやったなと思う。例えば神田の共立女子高という学校があるけれど、女子高なのに、そこまで訪ねて行って学校の状況を説明した。ウリハッキョに数百人の日本の高校生たちが来てフォークダンスをしたこともあった。ませていたのか、マルクスレーニン主義の本を抱えて歩いたりしていた。日本の学生団体の活動も活発だったので反応は良かった。高校に上がっても続けて、一九五五年に卒業した。卒業して二か月後に総連が結成されたが、総連では日本共産党の影響を排除しようとしていたので、平和委員会のように日本人との連帯を図る活動は主流ではなかった。活動は続いたけれど先細りは免れなかった。
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ビラ撒いて拘置所へ
政治犯に助けられ
当時は家が狭くて、自分の居場所がなかった。高級部に入ってからは友だちの家を泊まり歩いていた。中野で下宿部屋を借りた時期もあったし、高級部に入ってすぐの頃、浅草の東本願寺の墓地のバラック小屋にいたこともあった。そこには空襲で家をなくした人たちが、木切れを継いだ小屋で、商売をしながら暮らしていた。雨が降るとほとんど吹き曝しで、地面もぬかるんだ。
そのころに警察に何度か捕まった。浅草の映画館の二階からビラを配って、捕まって、運悪く外国人登録証を持っていなかったので蔵前警察署に一〇日ほど留置された。PXという米軍基地の中の販売店が放出したものをこっそり隠して上野のアメ横に運ぶアルバイトもした。当時はタバコひと箱を運ぶだけで一日暮らせるほどの金がもらえた。それで捕まったこともあった。
留置所というところは、とんでもないところで、特に上野駅周辺は、犯罪の巣窟だった。一部屋に強盗もいれば、スリもいて、いろんな犯罪者が集まっていた。取り調べもないまま、そんなところに最短24時間、最長で22日間留置された。ビラを撒いて捕まったときは、渡辺という政治犯が「よくやった」と言って何かと私をかばってくれたので、楽にすごせた。
そのほかに外国人登録証不携帯で二回捕まって、アルバイトでも何度か捕まった。アルバイトが発覚して捕まったときは、「これでオモニと同じになった」と思った。オモニも同じような仕事を請け負って何度も捕まっていた。当時は闇の商売が経済の主流だったので、捕まって物を没収されても、何日も留置されることは珍しかった。
東京に出てきてそんな苦労をしたから、いろいろな人に出会えた。そんな経験が無かったら、国民学校の時に受けた皇国臣民の教育を信じて、そのままどんな人間になっていたかわからない。
苦労したオモニ、ハルモニ
在日の歴史伝えたい
卒業後は新橋にあった総連会館の東京都本部で活動した。26歳の時に講習を受けて第八初級、第三初級、東京中高中級部で教員を12年ほどした。ところがクラスをもったのは2年ほどで、あとの10年は教務主任として校長を支える事務仕事が主だった。
そのあと体を壊して2年ほど伏せた時期があった。その時に再び同級生の李淳東トンムが登場して、家族を養うためにもそのままではダメだと、資金まで提供して朝鮮料理店を出せるようにしてくれた。小さな店を出して、子どもたちを学校に送って結婚させるまで続けた。もう亡くなったけれど李淳東は本当によく助けてくれた。同期生たちにもいろいろ手助けしてもらった。
オモニは駅前で靴磨きをしたり、パチンコ屋の前に立って両替をしたりして、子ども二人を育てるために苦労ばかり重ねて71歳で亡くなった。ハルモニもオモニも皆亡くなった後で、大切さを知った。ハルモニは少し学んだことのある人だったようだが、オモニはそんな機会もないまま、電車の切符を買うのにも苦労していた。
4年前(2015年11月=写真)に五期生の同窓会をして、東京中高に集まった。高級部二年生の教室に数人ずつ入って、一時間程、私たちの高級部の頃の話、「2.28」や「3.7」の話をした。それに対して生徒たちが感謝の公演をしてくれた。何十回同窓会をしたけれど、一番印象深い。
総連では顧問を名誉職のように扱うが、もっと活用すればいいと思う。家庭で昔の話をする一世や二世は少ない。伝統をつなぐ意味でも、一世や二世の話を児童生徒に聞かせるとか。
ハッキョは大切だ。ハッキョがなければコミュニティーはない。ついこの間も埼玉のハッキョで花見があったが、「総連はイヤだ」という人たちも来て楽しく過ごした。それがハッキョの花見だ。政見は関係ない。だから子どもたちがウリハッキョを故郷というじゃないか。(整理・金淑子)55
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本誌47号と48号に、「『東京朝鮮中高級学校10年史』に記された二つの事件」として、「一九五一年2.28、3.7事件」を紹介。
また、二〇一五年一一月の五期生の同窓会については、本誌35号の「朝鮮学校百景」2に「卒業して六〇年、母校での『出会い』」(177~181頁)に掲載した。
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