朝鮮の歴史:金正浩、金弘道
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朝鮮の歴史・100問100答
金昌成
編集部より・平壌の外国文出版社が昨年4月に刊行した「朝鮮豆知識②-歴史」(日文・83頁)からの転載。原文のまま、写真は整理者による。
五二〇~一六〇四)は僧侶で、西山(妙香山)に住んでいたことで西山大師と呼ばれました。壬辰祖国戦争に際して、彼は全国の僧に檄を飛ばして、一五〇〇名の僧兵を組織し、七〇の高齢をおして僧兵の先頭に立ち、平壌城奪還戦に参加しました。
その後、侵略軍を南海岸まで押し返し、国の危機が一応解消されると、弟子の四溟堂と処影に僧兵の指揮をゆだねて妙香山に帰りました。
もくじ
56・四溟堂はどんな人物ですか?
四溟堂(一五四四~一六一〇)は、壬辰祖国戦争で西山大師の呼び掛けに応じて、関東地方の僧約七〇〇名をもって義兵を組み、かれら僧兵を引き連れて平壌城奪回戦に参加し、敗走する敵兵に痛撃を加えました。
彼は、一五九四年春からは敵軍との交渉にあたり、しばしば敵陣に乗り込みましたが、ある時は、敵将加藤清正と談判し、その傲慢な要求を一蹴しました。
談判の席上加藤清正が、朝鮮では何を宝物とするかと問うた時、彼は目をむいて、「貴様の頭がわれわれの宝物になる」と言い放ったと言います。
四溟堂は戦後間もない一六〇四年、日本に渡り、徳川家康を相手に講和談判を行い、帰国に際しては連行されていた数千名の朝鮮人を連れ戻しました。
57・北関大捷碑はどんな記念碑ですか?
北関大捷碑は、壬辰祖国戦争で、鄭文孚の率いる義兵隊が咸鏡道地方で日本軍を撃滅して大勝したことを記念し、一七〇八年、今日の咸鏡北道金策市臨溟里に建てた記念碑です。
北関の大勝は、一五九三年一月の平壌城奪回戦と並ぶ戦局の転機をもたらした大勝利でした。
日本帝国主義者は,二〇世紀初めに朝鮮を占領した時、朝鮮人民の愛国心と反日感情の抹殺に邪魔になるとして日本に持ち去ったのですが、その一〇〇年後に返還されて元の位置に建て直されました。
58・金弘道はどんな人物ですか?
金弘道(一七六〇~?)は、一八世紀の著名な画家です。
彼は当代の人々の生活をリアルに描き続けた画家で、その作品は、画面の構成が奇抜で個性的でした。特に彼は、働く人々を作品の主人公として登場させており、「鍜治場」、「相撲」、「踊り」などはその代表的な作品です。
それ以外にも「九龍の滝」、「森の中の月夜」、「狗」、「老いた獅子」など、風景画や動物画でも抜きん出た創作的技量を発揮しています。
59・「牛飼い」はどんな作品ですか?
平壌の朝鮮美術博物館には参観者の特別な人気を呼んでいる旧時代の作品があります。金斗樑(一六九六~一七六三)の「牛飼い」です。
よく肥えた力強そうな牧牛が草をはんでいる牧歌的な姿を眺めていると、牛の情緒的な鳴き声が聞こえそうで、松の木の下で悠然とむき出しの腹を張り午睡をとっている牛飼いには、笑いがこみあげます。
この絵を見た外国人から「あの牛飼いの若者は今も昼寝をしているのでしょうか」という愉快な手紙が送られてきた例もあります。
60・朴趾源はどんな人物ですか?
朴趾源(朴燕巖 一七三七~一八〇五)は、幼くして両親と死別し、祖父に育てられました。虚弱な体質で、遅くなって勉学を始めましたが、熱心に学んでさまざまな分野の知識を習得しました。
文学的に特殊な才能を持ち、「許生伝」、「両班伝」、「虎の説教」、その他の作品を著わしています。
腐敗堕落した両班(貴族)支配層の寄生的生活を暴き、働く人々の悲惨な境遇に同情を寄せた彼は、実学思想家として広く知られていました。
彼は、中国に向かう使臣に随行して、帰国後有名な紀行文「熱河日記」を発表しています。
朴趾源は、崩れゆく封建制社会の社会的・経済的変化を反映した優れた諸作品を著わすことで、一八世紀朝鮮の思想・文化の発展に大きく寄与しました。
61・丁若鏞はどんな人物ですか?
丁若鏞(丁茶山 一七六二~一八三六)は若くして官職に就いたが、晩年に下野し、学術の研究と著述に専念しました。彼は、地球の自動説を正しいとし、雨、雪、雷、潮のみちひきなどの現象は神秘的なものではないと説きました。
かれは技術の発展に努めるべきだとして、農業、紡績、船舶の建造、橋梁の建設、城の築造などの研究を行い、水原城の設計を行った際は、その築城に大きな役割を果たす起重機を創案しました。
彼は卓越した文学家でもあり、詩「飢えた民の歌」、「虎狩り」、その他二〇〇編の詩及び散文を残しています。それらの作品は人民の悲惨な境遇に思いを致し、官僚輩の過酷な収奪行為を暴いています。
62・大東與地図はどんな地図ですか?
大東與地図は地理・地図学者である実学者金正浩(?~一八六四)が製作した地図です。
金正浩は、国内外の数多くの地理書や地図の研究を進める一方、数十年にわたり白頭山から済州島まで全国津々浦々をくまなく踏査し、その実測をふまえて、一八六一年、大東與地図を作成しました。
大東與地図は三三平方メートルもの大地図です。
彼は、地図を二二段に分け、それらを屏風式にたたんで書物のような形状にしました。毎ページの面積は三〇センチ×二〇センチで、それを伸ばした総面積は四・八メートル×三・二メートルもなります。縮尺は一対一六二〇〇〇です。
地図に表記された地点の位置が正確で、道路を表示した線には一里(四キロ)ごとに点が打たれていて、距離を正しく判別できるようになっています。(以下次号)51
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