米占領期=日本での共和国旗 守護闘争の全貌(1949・10~1952・4)
スポンサードリンク
![共和国旗掲揚禁止事件](https://www.urihakkyo.com/wp/wp-content/uploads/2018/11/201809_image409-720x500.jpg)
「在日朝鮮人綜合写真帖」(1958年刊)より 「国旗所持の理由で10以上の刑罰を受けた(宇部国旗事件)」との説明が付されている
米占領軍当局は唐突に、北朝鮮(共和国)旗掲揚禁止なる指令を下し、日本警察に対してこの命令を強制執行させた。こうして1948年10月9日から1952年4月末まで約3年間にわたり共和国国旗の掲揚が全面禁止される中、在日同胞は国旗掲揚闘争を展開した。(本文より)
朝鮮大学の卒業論文が「在日朝鮮人の共和国国旗掲揚闘争」だった。執筆したのは1963年、朝鮮民主主義人民共和国創建15年を迎えた年だ。
共和国創建30周年を迎えた1978年には、「統一評論」(1978年9月号)に「国旗を守りぬいた人々―朝鮮民主主義人民共和国国旗掲揚事件の真相」を、60周年を迎えた2008年には、「人権と生活」(2008年冬号)に「ドキュメント・占領期GHQの『国旗掲揚禁止令』」を執筆した。
今年、朝鮮民主主義人民共和国創建70周年を迎え、「統一評論」と「人権と生活」に掲載した二つのリポートを、「米占領期・日本での共和国国旗守護闘争の全貌」として再構成した。(2018・9)
孫文奎・現代史研究者
スポンサードリンク
もくじ
1・共和国創建に歓喜した在日同胞
*「統一評論」(1978年9月号)
■はじめに
周知のように、今年は朝鮮民主主義人民共和国創建三〇周年の意義深い年にあたる。
在日六〇万同胞は、一九四八年九月九日の朝鮮民主主義人民共和国創建記念日をどのように迎えたのか、私はこの問題をその当時の状況からみることで、在日朝鮮人運動の重要な側面をとらえることが出来るのではないかと考える。
また今日の若い同胞世代の中には、当時の在日同胞の重要な闘争の事実を知る機会もないまま、今日に至っている人が多いと思う。
そうした意味から、在日同胞が米日反動の厳しい弾圧の中で、貴い犠牲を払いながら共和国の国旗を死守した事実をふりかってみることは、きわめて大切なことだと考える。
朝鮮民主主義人民共和国国旗掲揚事件(略して共和国国旗事件)とは、一九四八年一〇月九日以降数年間、日本で共和国の国旗掲揚やポスターの掲示が一切禁止され、それに違反したかどで数百名の在日同胞が検挙されたばかりではなく、一部はアメリカ占領軍による軍事裁判に付され、重労働を科された上、南朝鮮に強制追放されたという前代未聞の弾圧事件である。
■共和国創建の感激
まず、共和国国旗掲揚事件をみるまえに、当時の内外情勢を簡単に述べてみよう。
この当時の政治情勢の特徴は、朝鮮に対するアメリカ帝国主義の植民地支配の野望がますます露骨に現われてきたことである。アメリカは朝鮮問題を一方的に国連に持ち込んだばかりか、一九四八年五月一〇日には南朝鮮で単独「選挙」を強行し、李承晩カイライ政権をつくり上げるために狂奔した。
朝鮮人民は金日成将軍の提唱により、南北分裂の重大な危機を回避するために、一九四八年四月二四日、南北諸政党、社会団体連席会議を平壌で開催した。
しかし、一九四八年八月、南朝鮮に李承晩カイライ政権がでっちあげられたことによって、朝鮮人民は自身の手による民主主義人民共和国を創建し、その旗じるしのもとに祖国の自主的平和統一を実現する道をとらざるをえなかった。
こうして南北朝鮮人民の熱烈な支持のもとに共和国憲法草案が検討され、一九四八年八月二五日、南北朝鮮地域で最高人民会議の代議員選挙が行なわれた。
南朝鮮ではカイライ政権のファッショ的暴圧の中でも、有権者の七七・二五パーセントが投票に参加している。
一九四八年九月九日、南北朝鮮人民の総意を結集して、金日成将軍を首班とする朝鮮民主主義人民共和国中央政府が樹立された。共和国政府が樹立されると、ソ連政府は朝鮮人民自身の手による祖国統一達成に有利な情勢を造りだすために、北朝鮮地域からのソ連軍の撤収を発表した。朝鮮人民は南朝鮮からの米軍撤退を要求し、自主的統一の実現のための闘争を展開した。
激動する情勢のなかで、在日朝鮮人連盟(朝連)に結集した六〇万在日同胞は、李承晩カイライ政権に反対し、朝鮮民主主義人民共和国のみが真に朝鮮人民の総意と利益を代表するものと認め、共和国の創建を熱烈に歓迎した。
こうして朝連中央は朝鮮民主主義人民共和国中央政府樹立を慶祝する盛大な大会を開催することを決定した。
「解放新聞」、「朝鮮中央時報」、「民青時報」などの紙上では、共和国の新憲法、国章、国旗に関する解説が次々と掲載された。また一九四八年九月には「朝鮮中央時報」編集局から「朝鮮民主主義人民共和国解説」が出版され、朝鮮解放運動救援会中央本部からは国旗型バッジが販売された。
国旗型バッジの広告宣伝文では、「同胞兄弟姉妹の皆さん! 朝鮮民主主義人民共和国の象徴たるこの尊い国旗を心から愛し、この国旗のもとにのみ、われわれの生死があることを自覚し、この国旗を死守し、国家を繁栄させるために…この美しい国旗を一人もれなく胸に輝かし、朝鮮民主主義人民共和国の誕生を心から祝福しましょう」(「朝連中央時報」1948年10月8日付) とよびか けている。
金日成将軍を首班とする朝鮮民主主義人民共和国中央政府樹立の報道は、在日同胞を湧き上がる歓喜と感激の中につつみ込んだ。そして、共和国樹立を熱烈に祝賀する各種の同胞集会は、朝連の下部組織である分会を中心に全国津々浦々で行なわれた。
当時の「解放新聞」の記事からそのいくつかをひろってみると、日本における最初の共和国中央政府樹立慶祝大会は、東京の朝連江東支部によって幕があけられた。
一九四八年九月一七日午後七時、会場に新しい国旗が飾りつけられ、感激と興奮のなかで支部委員長の閉会の辞が行われた。大会終了後、八〇歳のある老人は「四〇年ぶりにこのような感激を味わった」と涙ながらに語っている。
また九月二二日は、朝連荒川支部尾久第一分会で、五〇余名の同胞が参加し、新しい国旗の前で厳粛に祝賀会が行なわれ、「最後の一人まで、わが朝鮮人民の新国旗を死守しよう」という分会長の堅い決意がのべられている。
整理者注・「解放新聞」(1948年9月24、27日合併号)によると、前出「最後の一人まで…」と、語った分会長は李鳳〇*解読不明、オモニ会責任者の金石月氏(44)が「南北を通じて中央政府だけがわたくしたちの政府である」と述べたと報じている。
このように、日本各地では共和国政府樹立を慶祝する大小の集会が相ついで開かれた。
朝連は第一三六回中央常任委員会の決定として、一九四八年一〇月一〇日を期して、全国的に各地方県本部による慶祝大会を開催し、一〇月一七日には、神田共立講堂で中央慶祝大会を開催することを内外に発表した(「解放新聞」1948年9月24、27日合併号)。
これとともに、一〇月に予定される朝連第五回全体大会をめざし、各県段階での定期大会が共和国の国旗のもとで開催されている。
九月二七日、朝連広島県本部第五回定期大会が広島市猫屋町光道館で行なわれ、大会がはじまるや、「共和国の新国旗を掲揚せよ!」との緊急動議が出され、満場一致で採択された。
共和国の国旗を大会会場の正面に掲げ、朝連をはじめ、在日朝鮮民主青年同盟(民青)や在日朝鮮女性同盟(女同)の県本部定期大会が熱烈な雰囲気の中、各地で開催された。
このように、共和国の新国旗を高く掲げた在日同胞は、新生独立国家の公民としての限りない誇りを胸に、祖国統一をめざして強力な運動を展開した。
在日同胞による共和国国旗の掲揚は、「在日朝鮮人の地位を改善するために闘いつづけてきた唯一の政治路線を象徴するもの」(エドワード・ワグナー)となったのは当然のことである。
整理者注・エドワード・ワグナー(1924年 ―2001年)―連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったアメリカ合衆国の歴史学者。専門は朝鮮史。「日本における朝鮮少数民族 -1904年~1950年」(1951年著)
スポンサードリンク
2・GHQによる「禁止令」の顛末 *「人権と生活」(2008年夏号)
米占領軍当局は唐突に、北朝鮮(共和国)旗掲揚禁止なる指令を持ち出し、日本警察に対してこの命令を強制執行させた。こうして一九四八年一〇月九日から一九五二年四月末まで約三年間にわたり共和国国旗の掲揚が全面禁止される中、在日同胞は国旗掲揚闘争を展開した。
■米軍側が日本当局に指示
朝連と在日同胞は全国的な慶祝行事の準備を着々と進めつつあった。こうした中で全国トップを切って一〇月九日、横浜で朝連神奈川県本部が主催する、前例のない大規模の慶祝大会とトラック二百台による横浜―川崎間の祝賀行進を計画し、開催の許可を当局から得て、準備されていた。
ところが前日の一〇月八日午前、神奈川米軍政部関係者は警官、MPとともに横浜の朝連県本部に現れ、九日の慶祝大会での北朝鮮国旗の掲揚を禁止するとの米軍八軍司令官の命令を口頭で伝えてきた。同時に李政権を糾弾するスローガンを押収していった。
この命令はマッカーサー総司令部(GHQ)の指令として、全国の米占領軍基地司令官、地方軍政本部に緊急打電され、軍政部はこれを各県の国家警察本部長に指示している。
他方、一〇月八日午前、東京ではマ総司令部参謀二部の民間諜報局公安課長プリアム大佐が警察庁と警視庁の関係者を呼び出し、一〇月九日から共和国国旗の掲揚が禁止されたことを各地方の国家警察隊長に通告し適切な処置を執るよう指示を与えている。
米軍側の指示を受けた警察当局は同日午後、「北鮮旗の掲揚禁止に関する国家警察本部長通牒」を無線で各県の警察隊長に打電させた。
それは、「北鮮旗に対しては現地軍政部又は関係進駐軍と連絡を取り、掲揚又は使用させないよう処置するべきこと。一般国民には公開せずこのような恐れのある具体的な場合に該当者に注意を与え、そうした事例が発生した場合にはそれを撤去するよう命令し、それに応じないときは警察が直接撤去する等」の内容となっている。(「日本占領及び管理重要文書集」)
一〇月九日、日本各地の警察当局は朝連県本部の関係者を呼び出し、占領軍当局の指示により慶祝大会での国旗の掲揚が禁止された、と一方的に通報してきた。地方により多少の差があるが、八日から一〇日にかけて禁止令が朝連側に通告されている。
共和国国旗掲揚禁止に関するアメリカ軍総司令部の決定は、基本となるべき総司令部覚書が存在しないので、当局は日本の法律違反(勅令三一一号)として処罰することができず、「占領軍最高司令部の命令」であるとの一方的理由で、国旗を掲揚した者を軍事裁判で扱うというファッショ的方法で処理した。
作り上げられた過程は…
マ総司令部の共和国国旗掲揚禁止令は一体どんな過程を通して作り上げられたのか。占領軍文書から事実が明らかになっている。
一九四八年九月二九日、マ総司令部民間諜報部は横浜に本部を置く米第八軍司令部より次のような内容の通報をうけている。
![共和国旗掲揚禁止事件](https://www.urihakkyo.com/wp/wp-content/uploads/2018/11/201809_image407-720x639.jpeg)
国旗掲揚を禁じる無電指令
八軍司令部は、一〇月一日、南朝鮮米軍政庁駐日連絡事務所に関係する民団系情報員の提供する情報として、同事務所が米第八軍憲兵司令官宛て文書を通し、朝連が共和国慶祝大会を開催し北朝鮮国旗を掲揚する準備をしており、北朝鮮国旗は国連が承認していない国の国旗であるので、掲揚されるべきではないと主張したと述べている。
一〇月四日、朝連に対する北朝鮮国旗の掲揚禁止の要請をうけた米第八軍憲兵司令官は当方に国旗掲揚禁止の権限がないとし、北朝鮮国旗の掲揚禁止には賛成であるとの意見を添付し同文書を再びマ総司令部参謀第一部に転送している。
占領管理関係の指令文案作成を担当するマ総司令部第一部はこの問題の性質上、単独で処理する事が出来ず参謀第二部、外交局、民生局、法務局など関係部局との協議が行われている。
こうした中、一〇月七日には参謀第二部ウイロビーの名前で「左翼朝鮮人の集会とデモ」という朝連情報文書が作成され米極東軍司令部総参謀長マッカーサーに提出されている。
この文書の中で、次の点が指摘されている。
朝連の大会とデモには、▲朝連五全大会は李政権の権威を失墜させる企図がある。▲これらの一〇月の左翼の大会で北朝鮮国旗を掲揚することは反占領軍の性格を持つ。朝連の国旗掲揚の動機については、万一占領軍が北朝鮮国旗の掲揚に反対した場合、国旗の掲揚行為に対してだけ反対するものであり共和国の存在自体は承認していると主張するであろう。国旗の掲揚に反対しない時は、占領軍が共和国を承認したとの噂をばら撒くことにある。▲右翼居留民団の反対で一〇月九日の集会で暴力事件が生じる。民団の朴団長は総司令部に朝連の集会を取消すことを要請してきた。民団は集会鎮圧の為に占領軍に協力すると述べている。
このマ総司令部において、参謀第二部作成の朝連動向に関する情報文書を基に共和国国旗掲揚禁止の方針が準備された。
■なぜか正式指令文書無く
一〇月七日六時三〇分、参謀第一部はこの朝連情報文書を参考としてチェックシート(文書)を作成、米第八軍軍政本部に送っている。
この参謀第一部文書では➀この問題で参謀二部が米極東軍司令部総参謀長に提出した文書を参照した②集会は秩序よく行なうべきこと➂国連により承認された国の徽章(国旗)のみ掲揚できる、としている。
こうして参謀第一部は参謀二部をはじめ各部署の意見を統合して、朝連の慶祝大会と示威行進は認めるが、北朝鮮国旗の掲揚は禁ずるとのマ総司令部(実態は米極東軍司令部参謀部)の方針が決定された。
この方針を受けて、米第八軍総司令部では一〇月八日午前八時、同軍政本部副司令官ジョーンズ大佐の名で緊急無線指令(DX37532ED)が日本各地の米占領基地司令官と各地区軍政本部司令官宛てに打電された。この一〇月八日午前八時に発信された米第八軍無線指令(DX37532ED)がその後の北朝鮮(共和国)国旗の掲揚を禁止した唯一の根拠とされた。
電文は次の内容になっている。
「一〇月九日に計画された朝鮮人のデモに関する件を参照すること。北朝鮮国旗とこの国旗を描いたポスターの掲揚と掲示を日本国内において如何なる場合でも禁ずるとの連合軍最高司令官の決定を日本当局に通告せよ。この国旗は中央部に赤色の帯幅とその脇に白色の幅が横に伸び、その次に青の帯幅がある。棒のある側に白の円の中に赤い星がある」(占領文書)
この無線指令は米占領軍関係者以外には一切公表されず、日本側当局に対し所謂「口頭命令」で通告された。この電文指令の性格については米占領軍内部で問題点が指摘された。この電文指令の連合軍最高司令部の決定とは、連合軍最高司令部の正式指令ではなく、連合国軍最高司令官であり米極東軍最高司令官であるマッカーサーの決定(命令)であり、指揮下の師団、特に米第八軍の作戦行動に対する決定であると解釈されている。
また極東委員会の承認された指令文書(日本政府に対する覚書)は存在せず、軍司令官の単なる「口頭命令」であるとされた。この電文では正式の国名を避け北朝鮮国旗、北朝鮮旗の語句で表現し、旗とポスターの掲揚と掲示を日本国内で禁じるとし、禁止の具体的範囲、処罰の規定もない曖昧なものである。
■何ら法的根拠示す事なく
当時、全国各地の慶祝大会が目前に迫り命令施行には時間的余裕もない状況のため、最高司令官の決定を大義名分に掲げ、有無を言わさず推し進められた。当然ながら朝連や同胞の怒りと抗議は激しく、また、命令施行にあたった現場の米軍政部関係者や日本当局者のなかからも取締りに関し異議百出した。
朝連側と取締りに当たる軍政部、警察の間で論争が生じた、と占領文書は指摘している。
一九四八年一一月一日朝連中央本部はこの問題を対日理事会に提訴し、禁止の法的根拠の明示と撤回、基本的人権の保障、不法取締り中止と責任者の処罰を求め、検討を要請した。
一九四九年一月一日、年頭の辞でマッカーサーは、日本国民宛てのメッセージを発し、諸君の国旗を再び国内において無制限に使用し掲揚することを許可するとし、その理由として正義、自由、平和の象徴、政治的自由の確保、経済再建の奮起のために送る旨言及した。(「朝日新聞」1949年1月1日付)
マッカーサーが国旗の使用自由を言明したことにより、一月六日に、従来の国旗掲揚に関する総司令部指令が改められた。
日本国旗の使用自由に伴い日本当局は、米軍当局側に共和国国旗の扱いの問題を新たに提起し、今後日本警察の取締りのために
、正式な覚書を出すよう求めた。
しかし一九四九年四月末、米第八軍軍政本部も当初、日本当局が直接取りしまれるようにするため北朝鮮旗掲揚禁止の草案を覚書で作成し、マ総司令部側と協議したが、マ総司令部側が共和国国旗と明示することは共和国の実在と権威を認めることになるとして文書作成は見送られた。
従来のまま、共和国国旗を掲揚する行為は占領目的に反する行為として、米軍の手で、軍事裁判で処理する事が確認され「一〇月八日電文指令」を維持することを決め、その旨日本側に指示した。
このように禁止令の発令は共和国創建慶祝大会開催日の直前に何ら法的根拠も示すことなく、ただ連合国軍最高司令官の決定との一言で強要されたのである。
朝連と在日同胞は、米占領軍や日本当局の処置に激しく抗議し、国旗掲揚の権利を求める運動を展開した。
日本の治安当局が一九四八年度の集計報告で禁止令違反行為として、慶祝大会が開催された期間中、「この取締にあたったMPや警察官といろいろな紛争を起した。とくに仙台ではMPの発砲で重傷者が出る騒ぎを演じ、そのほか大阪、熊本、東京などで検挙されたもの四三名に達した。これらはいずれも軍事裁判で重労働に処されている」(「在日朝鮮人運動の概況」法務研究報告書四六―三号 二四〇頁)
しかし占領軍や警察当局により関係者の連行、事情聴取まで含めると実際は数倍に達するものとみられる。
スポンサードリンク
3・過酷な弾圧、国旗を守りぬいた人々*「統一評論」(1978年9月号)
■在日朝鮮公民の共和国国旗掲揚闘争
共和国国旗の使用禁止が報じられるや、これに対する在日同胞の憤激と抗議の声は日本各地でわき起った。
一九四八年一〇月八日、朝連中央は直ちに、国旗使用禁止に強く抗議する見解を発表し、一〇月九日、総司令部に対して国旗掲揚禁止の法的根拠を明らかにするよう迫った。と同時に、対日理事会のイギリス代表、ソ連代表にも国旗使用の正当性を訴えた。
整理者注・対日理事会―太平洋戦争後の日本を管理するための、連合国軍最高司令官の諮問機関。一九四五年一二月に東京に設置され、米・英・ソ・中の四国代表で構成。五二年四月、サンフランシスコ講和条約発効により消滅。(「デジタル大辞泉」)
しかし、米日当局は、在日同胞のこの正当な要求に対して、なんらの誠意ある態度を示さなかったばかりか、過酷な弾圧と迫害を加えてきた。
この結果、在日同胞が共和国中央政府樹立を祝賀する各地方県本部主催の慶祝大会は、国旗掲揚を要求する同胞たちの闘いの場と変わった。
朝鮮人民の真の祖国、朝鮮民主主義人民共和国を断固死守しようという同胞たちの堅い決意の中で、朝連県本部主催の慶祝大会が各地で一斉に開催された。以上はいずれも米軍憲兵隊、日本の武装警官の厳重な包囲のもとにおかれた。
一〇月九日、掃部山(横浜市)の会場で行なわれた朝連神奈川県本部主催の慶祝大会には、数百名の警官が動員された。前日の突然の国旗使用禁止命令のため、会場の国旗掲揚台には国旗がみられず、同胞たちは「なぜ国旗が使えないのか」とくやしさをこらえきれず、涙を流す同胞たちの姿がみられた。
この大会に参加した朝連初等学校教員の一人は、「幾日もかかって、子どもたちと一生懸命につくった国旗を一つも使えないのだから…。私はともかく子どもたちかわいそうでたまりませんでした。ある女子生徒はこの話を聞いて涙を流していました。一日中、国旗のことで頭がいっぱいでした」(「朝連中央時報」同上)と語っている。これは在日同胞の一致した心情であろう。
整理者注・「解放新聞」(1948年10月12、15日合併号)によると、同大会には「県下七千余同胞」が参加、朝連中央の韓徳銖議長が「九日朝九時に金日成首相から在日祝賀代表団を平壌に招請するとの電報があったと報告し、この会場を取り囲んでいる警官が過去、四〇年間われわれを虐殺し、抑圧した、そのような者だということを私たちは記憶していると、怒鳴り声をあげた」と伝えている。また、二一四台のトラックに分乗したデモ隊は、桜木町の繁華街を経て国道を直進、「巨大な行列は先頭から最終車までの通過時間が四八分もかかった…」と報じた。
また、一〇月一〇日には、朝連埼玉県本部の慶祝大会が浦和市埼玉会館で行なわれたが、開会のあいさつで司会者が、「新国旗をこの慶祝大会で掲げることができないのは憤激にたえない」と訴えると、ただちに国旗掲揚禁止に抗議する緊急動議が出され、満場一致で決議文が採択された。また会場では、「掲揚できないという国旗を、ちょっとだけでも見せてくれ」と叫ぶ同胞たちの切実な声があがった。
朝連山梨県本部主催の大会は、県下三千余の同胞が参加して行なわれたが、これに対して二百余名の武装警官が会場を包囲するという異常な雰囲気のなかで大会が挙行された。
こうした厳しい状況の中でも、在日同胞の共和国政府に対する絶対的支持と、国旗掲揚の権利を守る闘争は少しもひるむことなく、ますます強力な大衆闘争へと発展した。
一九四八年一〇月八日、「平壌放送」は、金日成首相が朝連の代表を平壌に招待した、と伝えた。このような中で共和国国旗を死守しようとする愛国闘争は、全同胞の決起によって果敢にくりひろげられた。
以下、主な共和国国旗事件をあげてみよう。
■仙台国旗事件
この事件を資料によってみると、次の通りである。
「朝鮮人連盟東北協議会主催の朝鮮民主主義人民共和国中央政府樹立慶祝大会が十月十一日~十二日の両日にわたって仙台市評定河原運動場で二千名の在日朝鮮人が参加し盛大に挙行された」が、第二日の示威行進で朝連宮城県本部組織部長が共和国国旗を掲揚したとして「米軍警察隊(MP)はかれの他二名を逮捕、大衆を押す、けるなどして、拳銃まで発射し」、そのうちの一人(二一歳)は腹部に銃弾を受けて倒れた」(「アカハタ」1948年10月15日付)となっている。
この事件に関して米軍総司令部渉外局は一〇月一四日、「火曜日(注・一二日)仙台市において、朝鮮人の一団が北朝鮮旗の掲揚を禁ずる旨の連合国最高司令官の決定を軍政部が強制することに抗議して、MPを襲撃した際、一朝鮮人がMPに射撃された」(「日本占領及び管理重要文書集」一七三頁)という発表を行なった。
![共和国旗掲揚禁止事件](https://www.urihakkyo.com/wp/wp-content/uploads/2018/11/201809_image408-720x530.jpg)
舞台中央に「名誉議長金日成首相」(「解放新聞」1948・10・25)
こうして宮城県米軍政部は、三名の同胞を軍事裁判に付し、一一月一五日の公判で、重労働三年、「本国」(南朝鮮)追放というファッショ的判決を言渡した。
朝連中央は事件発生と同時に代表を現地に派遣した。一方、事件の真相を糾明するために自由法曹団布施辰治弁護士を責任者とする日本人調査団が組織され、積極的な救援活動が展開された。
■朝連第五回全体大会での国旗事件
一九四八年一〇月一四日、東京・京橋公会堂において、朝連は日本各地から選出された代議員四六一名の参加のもとに第五回定期大会を開催した。同大会の冒頭、司会者が「今日、朝鮮民主主義人民共和国か樹立され、新しい国旗が制定されている。…本日は共和国の国旗を掲げて開会したい」と発言するや、割れるような拍手のなかで会場の正面に国旗が掲揚され、感激の涙にくれながら大会は進められた。
ところが同日午後三時二〇分、日本警察当局は米軍総司令部の命令だとの口実で一千名の警官を動員し、会場を包囲して国旗の降下を強要した。
大会では長時間の討論の後、大会の重要性を考慮して参加者は歯をくいしばり、憤激の涙のなかで革命歌とともに国旗を降ろし、その後に「名誉議長金日成首相」と大書きして大会をつづけた。
大会ではこの不当な弾圧に抗議する議長団声明が出され、直ちに代表団を組織して米軍総司令部、警視庁、対日理事会の各国代表に強い抗議と陳情を行なうことを決定した。
同じ日の午後四時、日本警察は捜索令状もないまま二百名の武装警官を動員し、東京駅前の朝連中央本部事務所を襲撃した。そして同本部内の国旗や国旗に関するポスターを略奪するという不法行為をあえてした。
ひきつづき一〇月一七日、神田共立講堂での在日朝鮮人中央慶祝大会に数百人の警官を動員、参加者に圧力を加えるなど、共和国国旗掲揚禁止を理由に、朝連に対する挑発はひごとに激化していった(「朝連中央時報」1948年10月15日付)
■大阪民青国旗事件
大阪民青第五回定期大会は、一〇月二一日から八尾朝鮮中学校で開かれた。同大会では参加者の強い要望により、国旗を掲げて会議が進められた。
ところが大会二日目に、大阪府警察機動隊八〇名が会場を包囲し国旗を降ろせと迫った。参加者たちは最後まで抗議したが、警察隊は会場に乱入して国旗を奪い、民青大阪府本部委員長、生野支部副委員長をはじめ多数の青年を検挙した(「民青中央時報」1948年10月30日付)。
そして一〇月二五日、米軍政命令違反として大阪第一軍事裁判所(在日米軍第二十五司令部)で重労働八年、刑執行後「本国」(南朝鮮)追放という過酷な判決が下った。
一一月一日、大阪府警は民青大阪本部大会の招集ポスターに国旗を描いたという理由で、民青本部の幹部二名を逮捕しただけではなく、この事件に関して民青大阪本部の幹部全員を逮捕しようとした。
また大阪では女盟東成支部が主催した慶祝大会の席上、参加者の強い要望で共和国旗を演壇から約一分間広げてみせたとの理由で、女盟東成支部の役員二名が検挙された。そして一一月一日、米軍第一軍事裁判所は重労働三年、罰金五万円(執行猶予)という不当な判決を下した。
■学同国旗事件
在日朝鮮学生同盟(学同)は一九四八年一〇月三一日、本部のある新宿の朝鮮奨学会で慶祝大会を開催したが、学生たちは共和国国旗弾圧に抗議、約五分間国旗を掲揚して涙ながらにそれを下した。
それから一週間後の一一月五日、学同の幹部二名が警察に逮捕され、CIC(整理者注・米占領軍の対敵諜報部)のとりしらべを受けた。そして翌年二月二四日、警視庁五階の米軍事裁判所で重労働三年の判決が言い渡された。
![共和国旗掲揚禁止事件](https://www.urihakkyo.com/wp/wp-content/uploads/2018/11/201809_image409-720x500.jpg)
「在日朝鮮人綜合写真帖」(1958年刊)より 「国旗所持の理由で10以上の刑罰を受けた(宇部国旗事件)」との説明が付されている
この学同国旗事件で弁護に立った布施辰治弁護士は、こう述べている。
「起訴状で被告人が掲揚した国旗は絶対にいわゆる『北朝鮮の国旗』ではない。『北朝鮮の国旗』というものは存在しない。これは全朝鮮民族から承認された朝鮮民主主義人民共和国の国旗である。これを北朝鮮国旗だとする本件起訴は不当である。国旗は人間の顔のようなもので、人間の存在を認める限り、その顔を人に見せることを禁ずる訳にはいかないのと同様、独立を認められた国家の国旗掲揚禁止は出来ないはずで、国旗掲揚禁止の通達は不法であり、国旗掲揚行為は罪とならない」
(「学同ニュース」第五号 1949年2月)
しかし、この軍事裁判所の法廷では「朝鮮民主主義人民共和国という国名を使うことを禁ず」という裁判長の命令が出され、両学生は即刻、府中刑務所に送られた。同胞たちの憤激が全国各地で高まったということはいうまでもない。
![共和国旗掲揚禁止事件](https://www.urihakkyo.com/wp/wp-content/uploads/2018/11/201809_image410-492x720.jpeg)
GHQによる検閲によって、共和国国旗に掲載不可のバツ印が付された「朝鮮の星」(日本共産党関東地方委員会 民族対策委員会編集)
■国旗バッチ事件と解救マーク事件
米日当局は、国旗自体だけではなく、共和国国旗に少しでも類似しているものはポスター類、雑誌のカットは勿論、バッチ類まで弾圧の対象にした。
一九四九年一月八日、滋賀県では朝連小学校の教員が小さな国旗型バッチを付けていたとして、日本警官が滋賀軍政部に通報し、同教員を逮捕するという事件が発生した。この結果、同教員は一九四九年一月一五日、滋賀軍事裁判所で三年の重労働と南朝鮮への追放という重刑を科されている。
また一九四九年三月三日、東京・神田共立講堂で行なわれた3・1革命三〇周年記念文化祭で、在日朝鮮人解放救援会の募金に加わり、「解救バッチ」を販売していた同胞が検挙されるという事件が起こった。この「解救マーク」は、一九四八年八月一五日に全国から図案を募集して製作されたもので、共和国国旗が制定される以前のものであった。
これ以外に注目される国旗事件としては、一九四八年一〇月一二日、在日朝鮮女性同盟第二回大会での国旗掲揚事件、一一月一三日、京橋公会堂で行なわれた東京朝鮮少年団第二回大会における国旗事件がある。
東京朝鮮少年団大会における国旗掲揚事件は、同大会の正面のポスターが共和国の国旗に類似しているとの理由で、武装警官百余名が会場を包囲し、ポスターを押収した事件である。少年たちはスクラムを組み、涙を流して強く抗議した。(「民青中央時報」1948年11月17日付)
地方では特に山口県下関と宇部での事件があげられる。
一九四八年一二月三日、下関朝連小学校の運動場で朝連山口県本部結成三周年記念大会が開かれ、参加者の切実な要求で共和国の国旗が掲揚された。これに対し、日本当局は市内の全警官と看守、消防隊員まで動員し、拳銃を乱射しながら国旗を降ろせと迫ったが、同胞たちは最後まで国旗を降ろさなかった。
つづいて一二月九日、宇部市民会館前広場で米軍の即時撤退、国旗弾圧反対、生活保護等を要求する生活擁護大会が共和国国旗を掲げて開かれた。これに対し、警察当局は飛行機、装甲車まで動員し、県朝連委員長を逮捕しようと会場に乱入し、数百名の負傷者を出すという事態が発生した。これには日本の労働者も多数抗議に参加した。
さらに栃木県、岐阜県、宮城県などでも多数の同胞の血が流されたが、共和国旗を守る運動は高まるばかりであった。
一九四八年九月九日以後、朝鮮民主主義人民共和国の堂々たる海外公民となった在日朝鮮人が、自国の国旗を使用するのは至極当然なことであり、それは基本的な民族自主権に属する問題である。
在日同胞は国旗掲揚禁止に激しく抗議し、犠牲者の救援活動を力強く展開した。
一九四八年一一月一日、朝連中央本部は、共和国国旗掲揚禁止によって各地で発生している事態の重大さにかんがみ、「朝鮮民主主義人民共和国の国旗使用禁止令に関する提訴文」を対日理事会の各国代表に提出した。
朝連のこの「提訴文」は、「タス通信」、「AFP」、「UP」、「ロイター」などの外国通信社によって全世界に報じられた。
そして一〇月一八日には、全労連主催による人民大会で、日本労働者と民主団体の名による抗議文が採択された。
犠牲者の救援運動が内外でねばり強くつづけられたのは言うまでもない。
在日米軍政庁や日本当局には、在日同胞によって「無罪釈放嘆願書」や「再審要請書」の署名が続々と送り込まれた。また日本労農救援会、自由法曹団をはじめ、日本の各政党、民主団体の積極的な支援が展開された。
このように、独立国家の公民が自国の国旗を掲げることを過酷に弾圧し、重刑、追放などのファッショ的暴圧を加えた例は、まさに史上まれである。
しかし、在日同胞は屈しなかった。そして最後まで朝鮮民主主義人民共和国の国旗を守りぬき、共和国公民としての誇りと栄誉を輝かしたのである。51
スポンサードリンク
詩)国旗
国 旗
許南麒
国旗는 누구의것이고
国旗는 뉘를 위하야 있는것이요오늘
一九四八년 十월 十일
玄海灘 건너 제땅에 못살고
日本 온 우리겨레 암담히 모여
우리 国旗 처음 걸고
우리 몇十년만에 처음 갖는 새 나라의 노래
마음놓고 불러야 할제
아하 또 하나
검은 손 우리 앞을 막는구나옛날
우리 태극기 부채만 들어도 찍히고
우리 태극기 그림만 그려도 쫓기던
그 검은 손과 손 손
또 하나 우리의 눈을 가리는구나그러나
우리는
이젠 다시 속지 않으련다
그러나 우린
이젠 물러서진 않을련다国旗는 누구의것이요
国旗는 뉘를 위하야 있는 것이요朝鮮사람이 朝鮮国旗 못갖고 뉘가 갖는단 말이냐
埼玉県祝賀大会席上에서
「해방신문」 1948년 10월 18일、21일 합병호
![共和国旗掲揚禁止事件](https://www.urihakkyo.com/wp/wp-content/uploads/2018/09/201809_image411.png)
「私たちは人民共和国の国旗を死守しよう!!」下関朝連小学校:五年・蔡鐘根
スポンサードリンク