朝鮮の歴史:甲午農民戦争120周年
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金昌成
編集部より・平壌の外国文出版社が昨年4月に刊行した「朝鮮豆知識②-歴史」(日文・83頁)からの転載。原文のまま、写真は整理者による。日本軍のこの暴行を朝鮮では「雲揚」号事件と称しています。
もくじ
70・「雲揚」号事件はどんな出来事ですか?
三度にわたる朝鮮侵略企図がことごとく失敗に帰すると、アメリカは多量の新式兵器と軍需物資を日本帝国主義者に提供し、彼らを朝鮮侵略の突撃隊に押し立てました。
こうして、一八七五年八月二一日、軍艦「雲揚」号が江華島沿岸に侵入しました。
草芝鎮を守る砲兵は攻撃を加える侵略軍に一斉に砲門を開き、これを撃退しました。
「雲揚」号はついで頂上島と永宗島に上陸し、男女老幼の別なく住民を皆殺しにし、家財を破壊・略奪しました。
71・「江華島条約」はどんな条約ですか?
日本軍国主義者は、「雲揚」号事件後、自らの侵略計画に従い朝鮮封建政府に不平等条約の強要を始めました。
一八七五年一二月一九日、陸軍中将黒田清隆は七隻の軍艦を率いて、釜山についで江華島沖に現われ、朝鮮封建政府に「談判」を強要しました。
一八七六年一月の会談で黒田は、「雲揚」号事件の責任を朝鮮政府が負うべきだと威嚇し、不平等条約の締結を迫りました。
武力を背景にした恫喝に恐れをなした朝鮮封建政府は日本側の不当な要求に屈服し、同年二月三日、朝鮮の港を開き、朝鮮在留日本人の領事裁判権を認め、朝鮮沿岸における日本人の測量及び地図作製の自由を保障することなどを定めた一二か条からなる「朝日修好条規」(通称「江華島条約」)なる不平等条約が結ばれた。
72・壬午軍人暴動はどんな出来事ですか?
壬午軍人暴動は、一八八二年(壬午)年、漢城(ソウル)で軍人と貧民たちが日本侵略者と封建支配層に抗して決行した大衆的暴動です。
漢城の兵士たちのほとんどはその周辺の貧民の子弟で、政府からいくばくかの扶持米をもらって軍隊に勤務していました。
その頃、一三か月もの間、扶持米の支給がとどこおっていた矢先にやっともらった一か月分の扶持米が既定の半分にもならず、しかも腐敗米、もみ、砂などの混じったものでした。
軍人たちが激昂して激しく抗議すると、扶持米支給の責任者閔謙鎬は一言の謝罪もしなかったばかりか、首謀者を逮捕し、死刑に処するよう指示しました。
怒りを爆発させた軍人たちは、一八八二年六月九日、リュ・チュンマン、キム・ジャンソンらの指揮下、暴動に決起して閔謙鎬の家宅を破壊し、武器庫を襲い、獄中の同僚を救出しました。
かれらは、閔氏一派の家宅を襲撃・破壊し、教官掘本ら日本人を処断し、「日本公使館をつぶせ!」「日本侵略者を追い出せ!」などの合言葉を叫びながら公使館を包囲・襲撃し、反日デモを展開しました。
大勢の貧民が暴動軍に合流して気勢を上げると、震えあがった花房公使一行は公使館に火を放ち、夜陰に乗じて仁川に逃げ延びました。
六月一〇日、数千名の暴動軍は閔氏権勢政権の元凶王妃の抹殺をはかって昌徳殿に向かいました。
王宮内に侵入した軍人たちは閔謙鎬と京畿道監司(長官)を殺し、王宮を捜査しましたが、王妃は宮女の衣装をまとって逃亡しました。
暴動軍の一隊は逃亡した日本公使一行を追って仁川に向かいました。
仁川においても愛国的兵士と人民が暴動に決起していました。合流した暴動群衆は仁川府庁を攻撃して数名の日本人を処断しましたが、花房公使は、停泊中の英国軍艦に助けられて日本に逃げ帰りました。閔氏政権は崩壊し、日本人たちはあるいは追い帰され、あるいは処断されました。
六月一〇日、国王の命令で、政権は再び大院君の手に戻りました。
軍人暴動で甚大な打撃をこうむった日本侵略軍は、「居留民の保護」を叫んで仁川港に軍艦を送り、他方、日本の侵略を牽制するとして、清国も軍艦四隻と輸送船一三隻に約三〇〇〇名の兵士を乗せて仁川港に送り込みました。
清国軍は、軍営を表敬訪問した大院君を捕えて天津に押送し、暴動軍人を残酷に弾圧しました。
大院君が政権から除かれ、軍人暴動が鎮圧されると、閔氏一派が政権に返り咲き、またしても売国的かつ投降主義的政策を実施しました。
73・甲申政変はどんな出来事ですか?
朝鮮では、一九世紀中葉から封建制社会の枠の中で資本主義的関係が発生・発展し始めました。
こうした状況を反映して、一八七〇年代初め、金玉均を中心とする新たな政治勢力開化派が形成されました。
開化派は、一八八四年一〇月一七日、郵政総局落成式宴に際してクーデターを起こし、政権を掌握しました。彼らは一〇月一八日、新政府の構成を全国に公布するとともに、外国の公使館と領事館にも通報し、一九日には、一四か条からなる新政府の政綱を発表しました。
政綱には、政治、経済、文化、軍事など社会・政治生活の全分野にわたり、旧弊な封建制度を資本主義制度へと改革すべき問題が提起されてしました。
ブルジョア改革が推進されつつあった時、守旧派残党は清国軍の出兵を秘かに要請しました。
清国軍が介入すると、王宮の守備に当たっていた日本軍部隊は、開化派との約束を反故にして逃亡しました。
開化派は必死に対戦しましたが、優勢な清国軍に撃破されました。
こうして一八八四(甲申)年のブルジョア改革は、三日天下に終わりました。
74・金玉均はどんな人物ですか?
金玉均(一八五一~一八九四)は、青年時代から開化思想に目覚め、封建制度を革新して国の近代化を実現するべく努めました。
やがて開化派の代表的人物となった金玉均は「忠義契」という秘密組織をつくり、これに志を同じくする官吏、軍人、商人、官女、内侍、宦官など各階層の人びとを引き入れました。
政府の要職を占めた開化派は、改革の遂行に必要な人材の養成をはかって、大勢の青年を海外へ送り、近代的な政治、経済、文化、軍事などの習得に当たらせました。
彼は国王に働きかけて開化派の政策を支持させ、新式軍隊の育成、郵便総局、沿道局、巡警部、博文局などの設置、「漢城旬報」の発刊など、社会的・政治的改革を一つひとつ推し進めました。
守旧派は開化派の活動を妨害し、金玉均ら開化派の中心人物殺害の陰謀をめぐらせました。
こうして平和的改革が難しくなるや、金玉均は甲申政変を断行したのでした。
政変に失敗した金玉均は、開化派の一部同志とともに日本に亡命したが、日本政府の迫害にあって、一八九四年二月、中国上海に移りました。しかしその直後、朝鮮封建支配層が送った刺客の手にかかって殺害されました。
75・甲午農民戦争はどんな戦いですか?
一八九四年(甲午)年二月一〇日、朝鮮半島南部の全羅道古阜軍の農民は全琫準の指揮の下、様々の悪どい物税の徴収に抗議し、暴動を起こしました。
暴動はやがて全国を巻き込む大規模の農民戦争へと進展しました。
農民軍は戦果を拡大し、政府軍を圧倒しました。
清国軍が朝鮮に侵入すると、日本は朝鮮居留日本人の「保護」を口実に、侵略兵力を送り込みました。こうした状況の中で、封建支配層は時間を稼ぐべく農民軍に和解を申し入れ、農民軍は外国勢力の武力干渉を防ぎ、民族内部の問題を自らの力で解決すべく、一二か条の弊政改革案を封建支配層に提起し、その受諾を確認させたうえで、六月一一日、全州城で和議を成立させました。
全州和議後、農民軍は農民の代表機関である執綱所を各地に設け、弊政改革の実行に乗り出しました。ところが、日本軍は腐敗無能の封建支配層を屈服させて撤収せず、朝鮮に留まりました。
農民軍は憤激し、「斥倭斥洋」のスローガンを掲げて武装闘争を再開しました。
救国抗争の炎は全羅同、忠清道、京畿道、江原道、慶尚道、平安道、黄海道へと燃え広がりました。
農民軍の主力はソウル進撃に先立って、日本軍と官軍の討伐拠点公州を攻撃しました。
公州激戦を前後して、農民軍の諸部隊は各地で日本軍と戦いましたが、新式銃砲で武装した侵略軍に押され、退却を余儀なくされました。
甲午農民戦争は失敗しましたが、朝鮮人民の熱烈な愛国心と旺盛な戦闘気勢、勇猛心と犠牲的精神、民族の団結力を誇示し、その後の反封建・反侵略闘争に大きな影響を及ぼしました。
76・全琫準はどんな人物ですか?
青年時代に書堂(私塾)の教師を務めた全琫準(一八五四~一八九五)は、古阜農民暴動を指揮し、やがて農民戦争へと発展させました。
農民軍の総大将に推された彼は、相次ぐ戦いを指揮して勝利し、全州城を落としました。彼は全州和議において封建支配層に農民軍の要求を受諾させ、その後、全羅道各地に執綱所を設けて農民の地方自治を実施する措置を講じました。
日本侵略軍の武力干渉が始まると、彼は再び農民軍を決起させて果敢に戦い、敵軍に大きな打撃を与えました。
しかし、裏切り者の密告で所在地を急襲され、逮捕されてソウルに押送され、悪辣な拷問の末死刑に処されました。