4・24教育事件の愛国者 朴柱範氏獄死:仮出獄2時間後に
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【兵庫県至急来電】4・24教育事件の犠牲者として獄中で苦しんだ朴柱範(前朝連兵庫県本部委員長)氏は、去る25日[1949年11月]午後8時に仮釈放となり、2時間後の26日午前零時(ママ)、死亡した。
朴柱範氏は、前兵庫朝連委員長として、4・24教育事件で被検された後、最近まで兵庫大久保刑務所で苦労してきた。氏は高齢であり、被検前から身体をこわしていたうえに、被検後獄苦によって健康を悪化させ、獄中でも病院に収容され、最近は、寝起きすらできなくなっていた。
このようななか、兵庫解救では繰り返し日本当局に仮釈放を求めてきたが、彼らは聞き入れず病状が極度に悪化するまで放置していた。
同胞たちは朴柱範氏の死去に憤激しており、兵庫県本部をあげての闘争が組織化されるようだ。
朴柱範氏の葬儀は、30日に決定した。
*出所・「解放新聞」(1949・11・28)
피의 한글을 지키자
尼崎朝聯初等学校卒業式에 보내는 詩
원통하게 四十年間 짓밟힌한글
찾으려고 힘써싸운 우리父母가
그얼마나 붉은피를 바친文化냐
동무들아 千年萬年 지켜나가자
四・二四의 教育弾圧 우리恩師와
団結로써 闘争하며 배우고배워
오늘날의 卒業이라 기뻐합니다
동무들아 千年萬年 지켜나가자
解放戦線 싸움터에 半生을바쳐
글과나라 찾아주신 金日成将軍
独立으로 빛내주신 피어린글을
동무들아 千年萬年 지켜나가자
来日부터 새社会에 발을내딛고
人民朝鮮 労働者로 나라為하여
農村에서 工場에서 일을하면서
동무들아 千年萬年 지켜나가자
一九四九・三月
*出所「解放新聞」(1949・4・18)
編集部より・「官憲の暴行―戦後労働運動弾圧の記録」(産別会義情報宣伝部編 京都・東京・三一書房刊 252頁)からの抜粋。筆者、刊行年度は不明、前書きと序文は「一九四八年十一月七日」となっている。
原題は「『ひざ撃』で発砲する警官隊 朝鮮人学校事件」(131~140頁)。旧仮名遣いなどは読みやすく直した。
日本の帝国主義が朝鮮を侵略した長い歴史のうちで、人類史上特筆すべき罪悪は愚民政策と同化政策とであるが、日本帝国主義はさらに言論や出版の自由を禁圧したばかりではなく、朝鮮民族から歴史や伝統を奪い、朝鮮的教育を廃止し、言語を奪い、ついには朝鮮人であるという精神まで奪いとろうとしたのであった。
この結果、日本から本国へ引きあげた朝鮮人の子供たちは、すこしも朝鮮語が話せず、話してもおかしな発音であり、おまけに朝鮮の風俗習慣が何一つわからない有様で、何処へいっても笑いものになり、いじめられるのである。そこで日本に残留した朝鮮人大衆はなによりも、子弟を祖国に連れてかえっても恥しくない朝鮮人しなければならないという考えから、あらゆる困難とたたかいながら朝鮮人連盟として自分たちの学校をつくることに努力してきたのである。日本の教育関係当局は、われわれのこの努力に対して、補助金は勿論、資材の配給を考慮せず、正規の手続きをふんでも、なお何とか難癖をつけて取りあわなかったのである。
更に、一九四八年一月二十四日付でだされた学校教育局長の指令は、在日本の朝鮮人は一切日本の法律に従うことになっているから、日本の児童と同じように、日本語で、日本の教科書で、日本の文部省がきめた学科課程を習い、暇があったら朝鮮語を教えてもよいといってきた。
朝鮮人人口十余万、初等学校六〇、中学校三、生徒数約二万を数える大阪府は、右指令に従って、生徒を日本の学校に入れるか、さもなければ、文部省の規定による私立学校にするか、どちらかを選ぶように云って来た。かかる圧迫は、勿論大阪府のみに限られず、東京、兵庫、岡山、山口、茨城など各府県も同様の措置を指令してきた。殊に山口県の如きは、県知事の名をもって、三月三十一日限り、学校を閉鎖せよという暴挙を敢えてした。
これに対して朝鮮人連盟は各地において、これらの措置は一切の既成事実を否認し、教育の自主性を剥奪しようとする弾圧であり、干渉であるとして絶対反対の意図を表明するとともに、われわれは、日本の学制および教育法を否認するものではなく、朝鮮人の特殊な立場をよく考慮して、教育の自主性を尊重し、用語、教材、経営を従来と同じようにやってゆくことをみとめるならば、私立学校の認可をうける用意がある旨の態度を明らかにした。
各地に在住する朝鮮人は、この基本方針にもとづいて、不当弾圧反対の闘争を展開した。
三月三十一日、山口県では一万の大衆が県庁をとりまいて、二十四時間居座り交渉をやった。四月十九日岡山では一万余の大衆が県知事に「間違ったことやめろ」とせめたてた。
当時、神戸の市長は、戦時中、朝鮮全羅北道全州にわたる大地主として、朝鮮人民をほしいままに搾取してきた小寺謙吉であり、交渉に際しても彼は、朝鮮人に対して昔ながらの民族差別的、侮辱的言辞を弄し、四月七日の知事命令にもとづいて、全朝鮮人学校の閉鎖を命令し、十日間の期限つきでその明渡しを要求した。更に小寺市長は、学校立入禁止の仮処分を申請することによって、学校閉鎖を強行するに至った。即ち彼の申請によって、執達吏は多数の警官や暴力団に擁護されて、市内の各朝鮮人学校を襲い、警備中の父兄を教室に押しこめ、椅子や警棒をふりまわして乱暴の限りをつくした。そのために父兄の中から多数の負傷者をだすにいたった。
朝鮮人に対する暴力沙汰は兵庫県庁に於いてもくりかえされた。斯かる不当弾圧に抗議するため、四月十五日以来、とまりこみで交渉をつづけていた交渉委員や一般朝鮮人は、またまた警官の暴力的弾圧によって傷つけられた。ここでは六十五名の拘束者と、十五名の重傷者を数えるにいたった。
一方、神戸在住のすべての朝鮮人を殺すために、暴力団と警官が動員されているという風説がどこからともなく流布され、罪のない朝鮮人たちの間に底知れぬ恐怖をまきおこした。この様な風説は勿論信ずべからざるていのものであったが、そのようなデマがつたえられるにいたった根拠は全然なかったとはいえないのである。即ち四月十六日には、警察から日赤病院に対して、近いうちに暴動が起るからその準備を頼むという通告がなされており、又二十三日には市内の各病院に、朝鮮人が負傷してきても決して診断書をかかないようにという達しが出されていたのである。
連日連夜、言語に絶するような警察当局のテロがつづけられ、官憲という官憲はわれわれに対して非人間的な処置をくりかえし、更に同じ朝鮮人でありながら、日本の反動の手先と化した建国促進青年同盟の挑発があり、神戸在住の一般朝鮮人にとっては生命の保障すらないという有様であった。朝鮮人連盟西神支部の委員長金三臺氏が取調べの際こともあろうにビール瓶でなぐりつけられて瀕死の重傷を負った事実は、当時の官憲の狂態ぶりを証して、なおあまりあるものと云えよう。朝鮮人のかかる人非人に対する憎悪と、憤激はその極点に達していた。
四月二十四日、事態を憂慮した共産党選出の神戸市議堀川氏は、知事に面会を求め、平和的解決と善処法を申入れた。
一方、憤激した朝鮮人は、同日午前十一時県庁におしかけて、知事に面会を申入れた。ところが知事は不在と称して面会を拒んだ。激昂した大衆は押問答の揚句、知事室のドアを押し開けて中に入った。ところがどうだろう、不在の筈の知事が市長や検事などとひざをまじえて密談しているではないか。朝鮮人の学校閉鎖を指令し、警官をして暴力的弾圧をなさしめた知事が、われわれに対して如何に不誠意であったかを、この一事は雄弁に物語っている。
しかし、さすが厚顔な彼らも狼狽の色をつつみきれず、漸く交渉に入ることを承諾した。長時間に亘る交渉の結果、
- 学校閉鎖令の撤回。
- 学校明渡の延期。
- 不法検束者の即時釈放。
の三要求を承認せしめ、知事の署名をとることに成功した。
また前交渉委員など六十五名の不法検束者も市丸検事正の責任において直ちに釈放するという言質をとった。
自分たちの要求が全面的に貫徹しえた大衆は、意気揚々としかも整然と引きあげたのである。一行は直ちに二宮、神楽の両校に集り、釈放された交渉委員らを迎えて歓迎大会を開催した。この事件の解決に親身の努力をかたむけてくれた堀川市議からも祝辞がのべられ、漸く四十四日にわたるテロの不安と苦闘から解放された朝鮮人たちは、午後十一時頃、ほっとした気持ちで帰途についたのである。
ところが翌二十五日の未明から神戸市内を中心に、尼崎、阪神、伊丹等全県にわたって朝鮮人の検挙が始まり、神戸地区に非常事態宣言が発せられた。さらに二十六日未明には、共産党員の検挙が行われ、その日開催を予定されていた人民大会は禁止され、そこに集まった多数の朝鮮人が検束されていった。かくして四月二十八日午後六時までに検挙された朝鮮人は一、五七二名、日本人一三三名、計一、七〇五名に上った。
この検挙中、警官によって人権じゅうりん、住居や器物の破壊は全く言語に絶するものであった。兵庫朝連本部は勿論、西部消費組合の事務所や、一般朝鮮人の私宅までもさんたんたる被害をこうむった。
こえて三十日には、神戸稗田、神楽両校の閉鎖仮執行が行われ、千数百の児童が寄り処を奪われるに至ったのである。
県庁における交渉の際、「こうして問題が解決した以上、本日の知事室における事件に関しては一切処罰しない」という知事の署名入り文書が出されたのだが、それも強制されたものであったという理由で一片の反故にされ、かえって、交渉の際に、「電話機を切断したり、」「庁内の器物を破壊」するなど、乱暴をはたらいたと云いいがかりをつけられる有様であった。当時ブルジョア新聞は、これを誇大に発表して、検察側の不当検束を止むを得ないものに見せようとした。しかし事実は、民主党の中村代議士がいう如く、「世間で騒ぎたてるほどのものではなく、」交渉の最中、しきりに外部と電話連絡をして、意識的に交渉を中断しようとするので、それをさえぎろうとした者と受話器を奪い合って生じたものであり、器物の破壊も、大衆の中に入り込んでいた反動的な建国促進青年同盟のものが、一般朝鮮人を挑発するために故意にやったものであった。
四月二十六日、大阪でもこの事件で検挙された者の釈放を要求して、大手前公園で大会を開催した。警察当局の要請もあったので、指導者は特に静粛に解散するよう会衆に注意し、大体三分の二くらいの者が解散を終わった時、建国促進青年同盟員は突然消防ポンプで放水し、会場を混乱におとし入れた。これがきっかけであった。武装警官はまちかまえていたように、会衆に向かって暴力をふるいはじめた。全然武器をもっていない人々にむかって、警官は無謀にも発砲するにいたった。朝鮮人側に多数の負傷者が出、ついに一少年が射殺されるにいたったのである。
民主主義的諸団体によって派遣された調査団に対して、鈴木警察局長は、「意識的にうった。膝撃ちもやった。立撃ちもやった。こんな場合には、警察が全滅するまでやるんだ。」と暴言をはいた。これが大阪府の治安を背負う責任者の言葉だと誰が信じ得よう。治安維持とは誰のためにあるのだろう。大衆にとって、治安維持はつねに武力弾圧の別称であるのだ。
その後の調査によって、この発砲事件が事前に計画されていたものであることが明らかにされた。さらに、ここでも又、朝鮮人大衆を煽動したというこじつけによって、全逓大阪地協の村上会長をはじめ、支配階級や警察にとって都合の悪い人民の闘士たちが弾圧され検束された。
獄中にある一朝鮮人新聞記者は、この弾圧について「朝連中央時報」に次のように書いている。
「われわれはこのような弾圧を予期しないわけではなく、又かかる弾圧がいかなるものであるかを了解しております。私達の民族教育をまもる闘争が正当に理解されず、共産主義の煽動による暴動であるといっておりますが、いま取調べを受けている同胞はひどい拷問にも屈せず、この闘争がある煽動者に付和雷同したものではなく、大衆ひとりひとりが自分の子弟に正しい朝鮮民族の教育をなすべく、自ら進んで参加した闘争であることを確言しております。
この取調べに当り、彼等は日本帝国主義時代以上のテロを行っております。棍棒でたたき、靴でけるくらいは序の口で、さかさにして天井につり、鼻から水を入れ、ネクタイで首を絞めるなど、いうにいわれぬテロに呻吟する同志達は歯を食いしばって、敵の打倒を叫んでおります。生田署前の留置場では千に余る同胞が警官のテロに苦しめられているが江戸の仇を長崎でとばかり、ありもしないケチをつけながら、棍棒の雨を降らしております。そればかりか、時には酒に酔っ払い、集団テロをやっております。ために一少年は気絶して入院し、また一青年はこの雰囲気にたえかねて飛び降り自殺さえくわだてました。
民主主義下に行われる野獣のようなこの暴行を私達はにくみます。だが、それよりも同じ朝鮮人でありながら朝鮮人の血を吸い民族を売る建国青年同盟の反逆行為をこそにくみます。
しかし、私達は朝連の組織が銅鉄の如く強固であることを知っております。また、今度の闘争を通じて高揚された大衆の力を眼のあたり見ております。しかも、いま祖国では平壌連席会議の成功が伝えられ、単選反対闘争が全域に亘って、いまや最高潮に達し、祖国の統一せる完全自主独立が近づきつつあるとき、私達はこの闘争が救国闘争の一端をになっていることを誇りとしています。私達はいかなる犠牲もあえていとわず、唯々朝連の組織を強化し、日本におけるこの救国闘争が、世界人民勢力と提携し、もつて自主独立を闘いとらんことを宣言する次第であります。」
日本のファッショ的支配権力は、世界の民主的勢力にたたきふせられ、敗戦を契機として後退せざるを得なかった。しかし決して絶滅し去られたのではなく、あらゆる機会を利用してその再建をうかがいつつある。ファシズムはかってと同じ装いをもってたち現れることはない。民主的手続きをよそおいつつ、実質的に支配力を掌握しようというのが、新しいファシズムの特徴である。
最近における一般的な労働法規の改悪、それを利用しての、民主的諸団体、労働運動への暴虐な武力弾圧は明らかにこの新しい型のファシズムを感ぜしめる。朝鮮人学校事件も又その集中的な表われの一つと見ることができるであろう。(以下略)55