在日朝鮮人でよかった!
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「在日朝鮮人に生まれて良かったって、思うんだよね」と言った時の日本人の友人のあまりの驚きに、たじろいだことがある。ソウル留学中の私を訪ねてきた彼女に、通っていた大学院を案内していた時だった。「日本人じゃなくて良かった」とか「韓国人でなくて良かった」という否定的な意味ではなく、在日朝鮮人として、韓国や日本との距離感が心地良かったのだ。
私にも「なぜ日本人に生まれなかったんだろう」「せめて自分の国で生まれれば良かったのに」という、どうにもならない思いを心の中で繰り返していた頃があった。
転換点は朝鮮高級学校への編入だった。
私が編入した一九七〇年代中頃、総連は大きな人事の変動で揺れに揺れていた。そのあおりを受け、朝鮮学校は大荒れに荒れていた。高一の頃は、教員の登校拒否で数学の先生が五回ほど代わった。他の科目も似たようなものだった。大人たちがそうなると、思春期真っ最中の生徒たちは、居場所を見いだせなくなる。欠席や遅刻、早退、気ままな学校生活が横行し、日本の中学校から来た私は「これが学校?」と驚くばかりだった。
そんな状況でも、初めて朝鮮学校を訪れたときの安心感は忘れられない。日本の学校で嫌がらせを受けていたわけではない。中学校の友人関係は極めて良好で、クラス委員長を務め、親友もいた。学校帰りに吹奏学部の後輩たちとバンドまがいのことをして遊んだり、先生に本を借りたり、楽しい学校生活を満喫していた。にもかかわらず、「朝鮮人」という受け入れ難い事実が、心の片隅でしこりとなって時々うずいた。それは家族にも友人も決して言えない痛みだった。
朝鮮学校に入学したからと言ってすぐにしこりが消えたわけではない。「朝鮮」への拒否感、嫌悪感は根強く、学校の荒廃とも相まって、教科内容や先生への不信が大きかった。初めて強制連行の歴史を習った時は「日本人がそんなことをするはずがない!」と心の中で激しく反発した。
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七月に名古屋で行われた「民族フォーラム」に参加した。長野、大阪に続き三度目の参加。一、二世の歴史を辿って改めて心に刻み、子どもたちのより明るい未来のために今まで以上に大きくしっかりとスクラムを組もうと呼びかける青商会のこのイベントに、参加する度、勇気をもらう。
愛知県青商会では、二〇一〇年に北海道で行われた「フォーラム」に刺激を受け、十一の地域青商会を立ち上げ・活性化させ、ウリハッキョのICT教育を支え、日本の学校に通う同胞の子どもたちのための土曜児童教室「サラン学園」を運営し、同胞高齢者の「お助けマン」も買って出た。今回のフォーラムを前に一四七人だった会員を二五〇人にまで増やしたという。最後にあいさつしたリ・ヨンナム実行委員長は、、感極まって何度も声を詰まらせた。私の席の後ろからもすすり上げる声が聞こえた。奮闘の日々が頭を巡るのだろう。あいさつに続いてフィナーレ、千人の歌と踊りによる「私たちの誇り限りなし」は圧巻だった。イントロが流れるとともに、胸に熱いものが込み上げた。県内の民族教育の再編という重大課題を前に、何としても民族教育を守るのだという堅い決意が伝わって来た。ビデオで紹介された「同胞社会が大好きなんです」という青商会会員の言葉がいつまでも余韻を残した。
同胞社会という自分の居場所があるから、ウリナラと、韓国と、日本との適切な距離感を保つことができる。互いを尊重することができる。その中心がウリハッキョなのだ。ウリハッキョなしに、同胞社会はないし、同胞社会がなくなれば、在日朝鮮人を主張する道は絶たれる。その歴史はぼやかされ、存在は曖昧になり、いずれなかったことのように扱われる。在日朝鮮人は、かつての私のように誰にも言えない痛みを抱えながら、なんでもないように振る舞うしか生きていく術がなくなる。
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フォーラムの翌週、広島地方裁判所は、朝鮮高級学校への無償化制度適用を求める生徒・卒業生百十人の訴えを退けた。理由は、総連との関係だという。朝鮮と総連と朝鮮学校を切り離そうとする日本の権力者たち。しかし七十年以上受け継がれてきた私たちの歴史を、植民地時代に朝鮮の歴史を書き換えたように、彼らの言い分に合わせて書き換えるわけにはいかない。
日本人の友人が私の言葉に驚いたのは、日本社会で在日朝鮮人が差別的立場に追いやられていることが、周知の事実だからだ。ならば差別解消を図るのが自然の流れだが、朝鮮人に関してだけは、いろいろな口実が正当化される。植民地の歴史にフタをしたように、在日朝鮮人の歴史も曖昧にできる、朝鮮人を弾圧することは何でもないと今も思っている日本人がいることが悔しい。44
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