100年以上に及ぶ朝鮮人教育への弾圧
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金淑子・編集部
知り合いが「植民地時代に日本は、10%だった朝鮮の識字率を40%に上げた」と言うのを聞いて、恐ろしいトリックだと思った。数字は定かではないが、その間、朝鮮人の識字率は確かに高くなった。しかし日本は識字率を「上げた」のではない、「抑え込んだ」のだ。
一九三六年一月二九日付「東亜日報」の記事によると、三五年の全朝鮮児童の就学率は25・8%。この数字は運よく小学校に入れた児童の割合を示すものだ。韓国のニュースサイトで「入学難」を検索すると、一九二〇年代から四〇年代まで千数百件の記事が表示される。当時の小学校の入学倍率は都市部で二~三倍だったという。
この報道の四日後、同紙は「初等学校の入学難」という社説を掲げ、「(翌年からの十年計画が実行されたところで)学齢児童総数のようやく六割を収容できるに過ぎず、…初等学校入学難はやはり続くだろう」とし、「講習所や改良書堂などに対してその監督や許可条件などを寛大にし、私立学校設立に関しても寛大な条件を付けるようにすることが現在の朝鮮の初等学校の入学難を緩和する方策になる」と、「過度な教育画一主義を固執」する総督府に再考を求めた。
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一九世紀末以降、朝鮮には近代の風が吹いていた。特に一九〇五年の「朝鮮保護条約(乙巳条約)」締結以後は、将来を憂う地域の有志たちが「教育立国論」を背景に相次いで私立学校を設立し、労働夜学、農民夜学を運営して活発な近代教育運動を繰り広げた。一九一九年以降は、3・1独立運動に教訓を得た青年団体や女性団体が、「文盲退治」を重要課題として、各地を巡回して近代教育の重要性を講演し、私立学校を支援するとともに夜学や講習所を直接運営した。この頃から設けられた女子を対象にした夜学は急速な広まりを見せ、一九二〇年以降、最も盛んな夜学となった。夜学は一九四五年の解放までに少なくとも六万か所以上で運営されたと言われている。しかしそれでも当時の学ぶ意欲にはこたえきれず、新聞には「夜学も入学難 農村婦女子も受講を志願、求められる入学緩和」などのタイトルが躍った。
これに対して日本は、一九〇八年の私立学校令、一一年の私立学校規則、一五年と二二年の私立学校令を通じて私立学校に対する統制を強化し閉鎖へと追いやった。一〇年に一、四一八校あった私立学校は、一九年には四六三校に、四一年には二七一校に減少した。夜学も「文盲退治に生徒の参加を禁ずる 啓蒙運動と京畿道方針」(三四年七月四日付「東亜日報」)などというように監視対象であり、取り締まり対象となっていた。
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近代教育運動は、日本でも繰り広げられた。
一九二五年一〇月二五日付「東亜日報」は、広島の同胞たち数千人が学友会を組織して、広島高等師範学校に在学中の学生たちを講師に、同胞を対象にした夜学を運営していると報じている。三五年八月二四日付の同紙は、名古屋で「昨秋以来、在住同胞の自覚の元に夜学が雨後の竹の子のように生じ、今その数一六にもなる」とし、各学院の運営状況などを詳しく伝えた。
一方、この半年前の二月一日付同紙の「京都に幼稚園が設立」という記事は、「いかに死にそうだとは言え、四万の居留民に小学校一つさえないとのは、誠意ある人士がいないという証拠だ」と嘆く文章で始まる。東京や大阪では「教習所や夜学などを設立して幼い子たちにカギャコギョ、一、二、三、四を教えているのを見た。しかし京都にはそれさえないのを見ると、子どもたちが将来朝鮮人らしい人物になると希望できるだろうか? 京都居留有志は自覚すべきだ」と手厳しい。当時の教育運動がいかに盛んで人々の意識に浸透していたかを物語っている。
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総督府は、在朝日本人のための学校は建てても、朝鮮人の学校を建てることには消極的だった。日本に従順であるべき朝鮮人に「人間としての豊かな自己の能力や個性を実現さ」れては困るからだ。一月に亡くなった日本軍従軍「慰安婦」制度の被害者・金福童さんは、なぜ朝鮮学校を支援するのか? という問いに「チョソンサラム(朝鮮人)だから」と答えた。十代の頃に引っ張っていかれ学びの道を断たれた彼女こそは、そんな時代の証人だった。
今月、大阪、兵庫、京都の留学同は、「私たち在日朝鮮人が、時に『朝鮮』を嫌悪し、そこから逃げ出そうとするのは、日本の植民地主義が私たち朝鮮人の内面を掌握し人格を破壊しようとする証拠である。だからこそ、3·1人民蜂起から百年が経った今日も、私たちはその歴史と向き合わざるを得ない」という宣言を発表した。
日本社会は、百年以上に及び朝鮮人の教育を弾圧している現状に向き合うべきだ。54
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