朴思柔と生徒の出会い描いたドキュメント:新しい時代に同胞つながるきっかけになれば
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政治、社会的背景への無理解
朴九〇年代末に「在日三世に国とか国境は関係ない」、「俺は俺だ」というようなメッセージを含んだ小説とか映画が結構出たのですよね。例えば金城一紀の小説「GO」とか。時代が変わりつつある日本社会にとってある意味、口当たり良くてカジュアルな「在日」、「新しい三世の在日」というようなのが出てきたときに、それも違うなと思ったのです。
金何が違うのですか?
朴正直にいうと、イライラしたのです、そういう在日像を表現する人たちに。歴史とかを置き去りにしてはダメだろうと。マイノリティとしてここに生まれた以上、政治も無関係じゃないでしょと。でも僕自身は民族的な学生活動とか、言葉の勉強はほとんどしなかったですけどね。
金京都の留学同は歴史もあるし、活発ですよね。それでもかかわりを持たなかったのですね。最近も京都の留学同から京都朝高の教員になった人がいるくらいですから。朝高の教員になって経済的に自立できるなら特異なことではないのですけど、現状は厳しいですからね。
朴財政の問題は僕も一番心苦しくて。財政的にここまでカットして、おまけに無償化の対象からも外すのかと。
金植民地時代の歴史の生き証人を再生産するところですからね、ウリハッキョは…。ただそれが誰か個人や特定の集団の思惑でそうなっているのではなくて、社会全体が何となくそっちになびいていくというのが、つかみどころがないというのが、恐ろしいです。
朴まさにそうだと思います。それが日本の歴史性というか。だからこそ難しいのだと思います。日本社会がそこに気付いて、克服しなくてはいけないのですが。
金七十年間、大日本帝国がアジアに何をしたのかという歴史を教えないまま、うやむやにしたというのはすごいことですよね。取り戻せるのかな? 以前、朴さんがご自身の在日としての出自を書かれたあるエッセイに「日本学校の教師の良心にはそれなりの限界があることを知った」とありましたが、どういうことですか?
朴僕の出会った「良心的な教師たち」は教室にいる「金くん」とか「朴くん」とか「李くん」がどういう政治的状況に置かれているのかということを、あまり意識していなかったように思います。朝鮮半島とおなじようにここにも分断があったり、日本の学校に通っている子たちとウリハッキョに通っている子たちとが分断されていたりとか、在日朝鮮人としてその子が背負っている歴史的なもの、また日本の学校がそういう分断を助長するような教育しかしてこなかったということを深く見つめて自らの問題意識として考えている人は少なかったのではないかと思い、そう表現したのです。
金植民地時代のことではなくて、その後の分断に対する問題意識ということ?
朴そうです。日本の学校の教育にウリナラ、共和国(朝鮮民主主義人民共和国)がなかったと思うのです。そこまで見つめていた人が仮にいたとしても、日本の学校の中での「良心的」な活動には大きな政治的な限界があったのではないかなと。全朝鮮的なこと、アジア的なことをやろうとすると、中国も入ってきたりして、日本の学校では身動きが取れなくなってしまうと思います。だから「本名宣言」とか、リアルな日常のイシューに取り組んでいたのではないかなと思っています。
金本名宣言をしても、本名で生きていくための知識や仲間の支えがないともっとつらくなる?
朴僕自身は幼いころから本名だったので、本名宣言の機会はありませんでした。特に大阪では民族学級の活動も盛んなことを後から知って、すごいなと思っていたら、反対にそういうのが嫌だったという人の話も聴くことになりました。本名宣言をして本名で就職が決まらなかった時に、先生は責任をとれるのですかと話したとか。それもわかるなと思ったりして。
金朴さんはどうしてそういうことを乗り越えたのですか? 歴史の勉強とかしたのですか?
朴大人になってからですけどね。二十歳超えてですね。大学生時代には全くしていませんでした。
金植民地の歴史は、日本の学校では習いませんよね。
朴そうですね。まったくないですね。それは大人になって勉強したのですね、たぶん。
金本を読んで?
朴読書遍歴をたどってみたことはないのですけど、植民地主義というのは朝鮮だけの問題というよりは、世界で抱える、抜きがたい、克服しがたい問題だと思います。朝鮮半島の歴史だけを見たというよりも広い意味で近代史をたどっていくと帝国主義の話になってゆきますし、帝国主義が資本主義といかに密接に結びついているかということは、帝国主義初期の分析のようなものから学ぶことも多かったです。
金それは大学に入ってから?
朴もっと後です。大学時代はほとんど本を読んでなかったです。音楽ばかりやっていました。ヨーロッパの植民地主義、ユダヤ人の置かれた状況がパレスチナに結びついていくということを踏まえて朝鮮をもう一度見たときに、共通するものがあると思いました。朝鮮の歴史からというよりは、そういう流れから認識していくようになりました。
金この異質感は何だろうと、解消したいという思いはなかったですか?
朴異質なものを引き受けなくてはいけないなと思ったのです。たぶん十代の終わりころから二十歳にかけてだったと思います。日本社会の中で周囲に違和感を抱かれても、それは引き受けざるを得ないと、そういう歴史性が自分にあると、それはそれで伝えなきゃならない、自分のできる範囲でと思ったのです。
金じゃあ、自分はちょっと異なる存在だと感じつつ、友達関係とかは?
朴それはそれでありました。音楽がすごく好きだったので、音楽を通じた友達がいましたし。ギターを弾いていろいろ歌を作って歌ったりするのが好きでした。そういう仲間もいましたし、高校時代も全く話さないというタイプでもなかったです。
金でも心の片隅には自分は異なる存在という思いがあったということですか?
朴そうです。社会の環境とか、ある状況において、非同一的な存在として僕自身が異質であることを明確に認識したうえで行動してゆくべきだと考えました。もしも学生時代に留学同などの活動をしていたら、友達関係も一気に広がって、みんなで学習して議論したりしていたのでしょうけれど、僕の場合はいつも一人でした。
金大学を出てから本屋さんに就職なさったのですよね。
朴就職というか、いろいろアルバイトしながら、いつの間にか本屋さんにいたという感じでした。
金幼い時から何になりたいというような夢はなかった?
朴ないです。高校生の頃は音楽をやって、この活動をずっと続けられたらなと思っていましたけれど。仕事かどうかはまた別にして。
金七八年生まれ、そういう年代なのかもしれませんね。バブルがはじけた後、終身雇用制度という概念が崩れて。
朴ちょうどそれがピークの時期だったと思います。子どもの数も多かった世代ですが、その大多数が就職しないということに共感していたと思います。「フリーター」という言葉が定着し始めた頃でした。会社勤めをしてきた親の年代とは違う生き方ができそうな雰囲気がありました。「就職氷河期」で大卒の求人倍率が非常に低く、内定率がすごく低かった年代でした。
金映画もその頃から好きだったのですか?
朴はい、大学時代から好きになっていろんな作品を観るようになりました。
金さきほどお話に出たエッセイの中で、何でもない場面に通りすがりのように出てくる朝鮮人に「痛みのような思慕」を覚えると書いていましたが。
朴どこか胸の奥をピュッと引っかかれるような痛みが走るけれど、また見たくなるという感じですかね。昔の日本の映画を観ると主人公ではないのですが、近所の朝鮮人の夫婦がちらっと映っていたり、やくざ映画では下端が朝鮮人でその妹がチマ・チョゴリを着ていたりすることがあるのです。その存在のはかなさというか、「ここにもいた」と思うけど物語には浮き上がってこない。それが戦時中の街の姿だったのかなと思ったりするのですよね。当時、朝鮮人は人口比率でみても今より多かったと思います。そういう映画の中の朝鮮人と歴史を合わせて考えたりもしました。
金日本社会の在日朝鮮人とダブったりするのですね。
朴そうですね。日本映画で正面切って在日朝鮮人を描くのは難しかったですし、またそんな必要性もなかったのでしょう。でもそういう作品を探して観ました。記録映画なども。そんな中でいろんな発見がありました。一九六〇年代頃になると、映画の作られ方も映画会社ではなくて、監督たちが独立して撮るように変わってくるのですけど、映画の中の朝鮮人の位相もまったく変わってきます。独立して映画を撮った新進の映画監督のなかでも大島渚や若松孝二の作品、特に大島渚は極めて先鋭的な問題性を持った存在として在日朝鮮人を描いたと思います。朝鮮人がポリティカルな意味も含んで描かれるようになったのは、この六〇年代半ば以降かなと。今となってはその時が突出していたようですが。
金その頃は日本の学生運動も盛んでしたよね。
朴まさに映画は日本社会の反映でもあり、批評でもあると思うのです。四〇年代、戦前戦中の作品はまさに娯楽としての映画なのですが、その中の朝鮮人の姿に何ともいえないはかなさを感じました。
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